このような状況で「ノー」を言うことこそ、私は「勇気」と呼びたい
ベルリンで開催されたクリストファーストリートデイ2010で、ジュディス・バトラーが「市民の勇気」賞を拒否した。受賞拒否のスピーチでは、人種主義と共犯関係にある主催者を批判し、本当に「勇気」を讃えるならば、賞を受けるべきなのは、として、具体名を挙げて、Transgeniale CSDを賞賛する内容だった。
英語訳、日本語訳が、Gender-Related Education & Action Team, Japanで紹介されている。
●「ベルリンパレードでジュディス・バドラーが受賞拒否[2010](日本語字幕、訳付き)
さらに、引き続いて行われたAVIVA-Berlinによるバトラーへのインタビューの翻訳。
●「ドイツの団体によるジュディス・バトラーのインタビュー(和訳)
現代のフェミニズムは恐らく、国家の文脈の外側で政治的行動を起こせるのか、起こすべきなのか、あるいは社会に変化を起こすには国家的・法的な組織を必要としているのか、というところで分割している状態だと思います。私の初期の議論はジェンダーを実践し変化させるような文化的な行動・実践に注目していましたが、今と同様に当時もまた、結局拘束的なやり方で女性を定義してしまうような国家権力のあり方と手を組むことに危惧を持っていました。これはもちろん、「被害者」言説の1つの問題です。もちろん一方ではいつどのようにして人々が被害をうけるのかということを理解出来るようにならなければなりませんが、しかしそこで被害者と定義付けられる人は、どのようにして自ら行動出来るのでしょうか。被害者であると法的に認められてしまえば、抵抗・抗争・エージェンシーのありかたを理解するのは困難になります。フェミニズムはジェンダー的な暴力のあり方を記述し、反対しなければなりませんが、しかし同時に女性がどのように抵抗し、戦い、彼女たちの世界を変化させるのかを示す必要もあります。両方をやって、私たちが採用する戦略が果たして私たちのエージェンシーを拡張するのか否かを自らに問わなければなりません。