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March 26, 2007

2007年度PSIRゼミ選考

●2007年度PSIRゼミ選考の手続きについては専攻のWeb、223室の掲示を参照して下さい。
●スケジュールは
  • 志望理由書提出 07年4月9日(火)午後4:00総208金成浩研究室ドアポストまで
  • ゼミ選考期間 07年4月9日(水)-4月12日(木)期間中に各ゼミによる面接や二次選考もあり。掲示等に注意。
  • ゼミ選考発表 07年4月13日(金)223教室に掲示
●2007年度阿部ゼミナール選考の方法とプロセスについて詳細は以下。

2007年度阿部ゼミナールについて

2007年度阿部ゼミについてはシラバスを参照して下さい。 阿部小涼についてはabekosuzuを参照して下さい。

選考の方法とプロセスについて

専攻の取り決めに従って、人数の上限を越える場合は、ゼミ選考を実施します。

(1)PSIR専攻が実施するゼミ説明会に出席して下さい(2006年12月06日(水)17時00分〜)。 (2)阿部ゼミを志望する学生は、以下の要領に従って下さい。

  • 以下の項目について回答を作成し、kosuzu(あっとまーく)ll.u-ryukyu.ac.jpまでe-mailで送信して下さい。締め切りは、専攻全体の理由書提出締め切りと同じです。厳守。
    • 氏名、学生番号、e-mailアドレス
    • 第2-第5志望のゼミ名
    • プロフィール(あなたを知るための基礎的情報)
    • パソコン使用環境(何を、何年くらい、何の用途で使用していますか)
    • OS、言語とインターネットの知識
    • ゼミで取り組みたいテーマ
    • プロフィールの追加(あれば)。

    (3)専攻の取り決めに従って、人数の上限を越える場合は、ゼミ選考を実施します。
    ※07年度よりPSIRゼミ選考は07年4月初旬に実施される運びとなりました。充分に注意して下さい。
    ゼミ選考は、提出された志望理由書と面接で実施します。理由書提出締め切りのすぐ後に、個人別の時間を阿部研究室ドアに掲示しますので、自分で確認して、指定された時間に阿部研究室に来て下さい。面接では以下のような内容が問われます。

    • 最近読んで影響を受けた本について批評する。
    • こちらが用意した英文を翻訳する。

    (4)結果の発表について

    • こちらからe-mailにて連絡します。
    • PSIR共同利用室(223室)に掲示されます。

    (5)問い合わせはkosuzu(あっとまーく)ll.u-ryukyu.ac.jpまでどうぞ。

  • March 07, 2007

    「大学図書館のデジタル情報をハーレムで考える」

    (『けーし風』第46号(2005年3月)のエッセイを許可を得て再掲載しています。)
    阿部小涼「大学図書館のデジタル情報をハーレムで考える」『けーし風』第46号(2005年3月)。

       本日午後八時一五分から、ニューヨーク郊外、ヘムス
      テッド(ロングアイランド)のレイク・ヴュー・パーク
      で、「アフリカン・ディアスポラ」と題する、アフリカ
      の歌とダンスのイヴェント。
          『ニューヨークタイムズ』一九七四年八月四日。

     アメリカの大学で研究する利点のひとつは、図書館や文書館にある。アメリカ研究をする上ではすなわち現地の資料だから、まぁ当然と言えばそうなのだが。施設や環境、情報量という点で圧倒的で、こんな環境で育つ若者たちは、情報を制する国が世界を制圧するのだという誘惑に、駆られていくのかなと皮肉な気持ちになるものだ。私が貯金をはたいて初めてアメリカ合州国に足を踏み入れたのは、一九九二年の夏の初め、大学院修士二年の時だった。所持金を計算して、何枚までならコピーがとれるか勘定した事が懐かしい。それから一〇年以上が経過して、事態は様変わりしたが、それでも依然としてアメリカの大学図書館は優れた研究環境である。

     なによりも圧倒されるのは、電子化されたデータベースの規模であろう。過去二〇年ぶんくらいの学会誌の類は大抵が、インターネット経由で手に入る。夜中に自宅で本を読みながら、気になる論文はダウンロードしてすぐ読むことが出来る。不精者天国には諸手をあげて賛成。こういうデジタル礼賛的なことを書いていると、どこからか「電子化という権力によってこぼれ落ちていくのは弱い立場の人々の見えない姿、聞こえない声だ」・・・などという戒めの声が聞こえてきそうだ。しかし、それを充分に認識した上で使うのが、デジタル時代の研究者作法というもの。それどころか、こうした状況を有為に利用する戦略を実践するほうがずっとためになる。

     古い新聞が、テキストとして認識されるPDFファイルとして整備されていることは、今回のニューヨーク滞在で浴することが出来た恩恵のなかでも最大のものだ。自分の関心に即して言えば、『ニューヨークタイムズ』をその一八五一年の創刊からすべて、キーワードで検索することが可能になっている。冒頭の引用は、"African Diaspora"というキーワードで検索して得られた最も古い記事である。現在、非常に重要視されている「ディアスポラ」の概念を、アフリカ系について適用した『ニューヨークタイムズ』で最初の事例が、この一九七四年の小さなイヴェントを告知する記事であったかもしれない。公民権運動とブラック・パワー運動に支えられてアフリカ系としてのアイデンティティが様々な場面で高揚した70年代半ばという時期、アフリカの音楽とダンスを紹介する行為に、前衛的なシーンのなかではすでに定着を見せていたであろう「ディアスポラ」の語を掲げた人達に、しばし思いを馳せる。他にも例えば「多文化主義」という語が新聞紙上ではいつごろから登場するのか、など比較的新しい概念の形成過程を、ある程度了解可能な範囲で、正確に掴むことが可能になるわけだ。「人種」という語の意味内容の変化を丹念にトレースすることも出来るだろう。

     さらに歴史に埋もれた事件の調査にもすばらしい威力を発揮する。たとえマンハッタンに限定しただけでも世界はNYタイムズの報道だけで構成されていたわけではない。一九二六年七月にハーレムで起こった事件は、日常的に起こっていたプエルトリカンへの差別に対する抗議行動の意味を持っていた。しかし該当するNYタイムズの記事はごく小さく暴動事件として扱い、検索機能によって辛うじて見落としを免れるようなものだった。同じ報道をプエルトリカンのコミュニティ新聞の内容と比較する動機と手掛かりを十二分に与えてくれる。かつて「人種暴動」と報道されたものを、「抵抗」「反乱」として相応しく読み替えていく作業にもつながる。

     インターネットで利用できるのだから別に日本にいても、と思いがちだが、落とし穴がある。メンバーシップの問題だ。技術の革新と同時に閉鎖性の向上は、大学図書館で起こっている見逃せない変化である。書架に並ぶ本によって訪れる人すべてに開かれていた情報は、外部からの入館者を排除し、インターネット経由のリソースを増やしユーザコードで制限することで、管理が強化されている。実は、先の歴史的新聞資料は、私がお世話になっているニューヨーク市立大学では利用できず、私立のコロンビア大学の友人に頼んで使わせてもらったものだ。資金格差という経済は、ここでも冷徹な現実を容赦なくかいま見せる。潤沢な資金を背景にして、民間企業に委託されているデータベースの利用が可能になるというわけだ。環境による格差は研究者育成の現場で明かに進むだろう。高い学費を支払うことが出来る大学院生のみが、豊富なデータベースで短時間に資料をさばき、細かな情報にもアクセスしながら、充実した論文を仕上げる。金がなければ、体力と健康と時間を賭けても限界のある情報量で、同じ研究競争を生き残らなければならない。

     それだけではない。コロンビア大学はハーレム地区に不動産投資を行って、コミュニティ破壊を助長しつつ、こうした潤沢な資金を得ているのだとしたら、象牙の塔に囲い込まれた情報の対価というものを考え直さざるを得ない。恵まれた環境で育ったコロンビア大生に向かって授業のなかで「特権的に利用出来る豊富な情報を使って抵抗する戦略を構想するのは、君たち知識人の果たすべき役割だ」と訴えるハーレム出身教師の声に、応答できる世代が育つことを期待しよう。


    「不都合な証拠/永続する瞬間」

    ※『けーし風』第45号(2004年12月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。
    阿部小涼「不都合な証拠/永続する瞬間」『けーし風』第45号(2004年12月)。

     ニューヨークでは現在、二つの別々の写真展が、時期を重ねるようにして開催されている。ICP(国際写真センター) の「不都合な証拠:アブグレイブからのイラク捕虜収容所写真」展*1と、PS1(クィーンズにあるMoMa傘下の現代アートミュージアム)で展示されている「永続する瞬間:沖縄と韓国 内なる光景」展*2である。この二つの写真展は、いずれも米国の軍隊を批判する内容でありながら、様々な点で対照を成し、同時に開催される偶然が、様々な思考を刺激した。

     前者は、アブグレイブ収容所で捕虜を虐待する米兵を記録したデジタル写真の展示である。『ニューヨーカー』誌の記事でシーモア・ハーシュが詳細にレポートしたこと、発売直前にこの記事がCBSの報道で放映されたことで、事実が暴露された。それらの写真を、ICPで敢えて展示したのである。

     アブグレイブの写真が内包した構図は、ドキュメンタリの常識を覆す。撮影者は素人であり、イラク人捕虜達が虐待されている様を、現場に居合わせた記念のように撮った。あたかも、有名な建造物や美術品をバックにピースサインを出して撮影される観光の記念のように。だが、これを見る側の視線は虐待している米兵に釘付けになったのだ。撮影した者の共犯性も問題視された。電子メールで友人たちに配ろうとした行為も、一連の写真の大きな構図の一部である。

     展示に当たって、こうした経緯に細心の注意が払われたことが判る。米兵の手による写真は白い用紙にカラープリントされたものを、余白もそのままに、ありきたりな画鋲で壁に留められた。トリミングによる隠蔽を拒否し加害者の姿がありありと映し出される一方で、一部の被害者の顔にはマスキングの処理がなされた。キャプションのなかで個人として名前を特定出来る被害者は、告発者としてこの事態に屹立していることが判る。事件の報道を受けた現地の、怒りに満ちた人々の様子は、展示のための加工を施されフレームに収められた作品として展示された。アブグレイブの写真を見る者は、被写体ではなくその撮影者の位置を批評的に見ることになる。

     軍隊はある日、忽然と戦場に現れるものではない。一人一人の人間によって構成される大規模な組織が、基地とその周辺で、戦場を準備するための日常を過ごしている。日常のなかに置かれた軍隊が、それと隣り合わせに生活している人々と、どのような関係を取り持つのか。ことに強権的に暴力的に収奪した他国の土地に存在する軍隊の日常について、明らかにしようとするのが、「永続する瞬間」展であった。

     あらゆる意味でこちらの展示のほうが、写真家集団マグナムの拠点でもあるICPで開催されるに相応しいものだったと思う。「決定的瞬間」というカルティエ・ブレッソン*3の残した言葉に呼応するタイトルも、現代アートの拠点を会場とした展示も、何かアイロニカルに響く。これはまさにドキュメンタリ写真の展示だったのだ。

     かれらが捉えた構図は、事件の決定的瞬間だけではない。長く続く終わりのない占領を生き抜く生活者として、自らも被写体の一部と化してしまう石川真生*4の写真。土地と身体が傷跡として持ち続けている沖縄戦の記憶を撮影しながら、伝えて欲しいとの思いを託されてしまう比嘉豊光の写真。自らも当事者のひとりとして社会に巻き込まれ、表現者としての責任も負っている、その人達の手によるドキュメンタリは、権力的な撮影者の高見から被写体を撮る/盗るものではあり得ない。アン・ヘリョン氏*5以外の韓国の写真家たちに米国ヴィザが発給されなかったことは、米国の閉鎖性以上に、写真家達のアクチュアリティを生々しく伝えているだろう。

     ところで、ドキュメンタリ写真の展示に、キャプションや解説は、すでに作品の一部であると思う。「想像」に委ねてはならないものが、そこには映し出されているからだ。抑圧可能な「他者」を固定化しようとする視線は、容易に転覆することが出来ない。「轢死した若者の死体」「奪われた土地」の映像が、アブグレイブと同じインパクトを持って伝えられないアメリカの日常に、切り込まなければならない。伝えようとする写真家の努力と同時に、それを展示し置き直そうとする姿勢も問われていくことだろう。マーク・ルヴァインはアブグレイブで起こったことについて「見る目さえあれば、戦争犯罪の証拠は新聞に報じられてきた」という*6。見る目が失われているのは、今に始まったことではない。ICPの写真を見てリベラリズムの熱気を共有出来る人のうち、いったいどのくらいが、このPS1に足を運んだろうか。

     PS1のオープニング・イベントとして踊られた沖縄舞踊は、沖縄から来て写真展を成功させようとしている人々に対する、在NY県人会による心からの励ましであった。しかしそれは私の目には強い違和感を放って映った。木枯らしの吹く土地で冷たいコンクリートを踏みしめる踊り手たちの様子は、展示の内容との温度差を象徴しているかのようだった。「これが皆さんの知らない南の島の文化ですよ」と、にこやかに紹介される衣装や歌三線を眺めながら、他者を抑圧し収奪する眼差しは、書き換えようと抵抗する最中にも、強化されていくのかと途方に暮れてしまった。このステージの向こうに待っている写真のオキナワは、米国を歓迎していない。男を恋い慕う女の歌は、あなたたちに差し向けられていない。嫌悪感にも似た感情で頭が膨れあがってしまい、知らない間に挿入されていた替え詞に、危うく気付かずにいるところだった。「もとの沖縄にしておくれ」。あの小さな一刺しに込められた批判精神に気付く感性を、危険で暗鬱なこの先の4年間を過ごす米国に求めたい。


    「抵抗の想像力」

    ※『けーし風』第44号(2004年9月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。
    阿部小涼「抵抗の想像力」『けーし風』第44号(2004年9月)。

     反戦・反ブッシュ派(とひと口にまとめてしまうのは乱暴なのだが)。現在の米国で抵抗運動を担うこれらの人々のなかで、1960年代の社会運動へのリスペクトが絶えない。かれらの戦争反対を、抵抗のフリースピーチ運動を、非暴力闘争の理念を現在につなごうとしているのだ。当時活躍した言論人の声に耳を傾け、映像記録を眺めてみると、存外その方法は多様でユニークであった。そして戦略の甘さや計算外の失態、分裂や失望や維持の困難がその後に続く。

     気になるのは、複雑で多様な内実を抱え込む反戦派が、今回の大統領選で民主党に、さらにはジョン・ケリー支持に収斂していく点だ。不協和音は既に、民主党大会において明かだった。イラクからの即時撤退を求める声は、「テロに屈せず」と声を荒げ軍隊の統率力もそつなくアピールするケリーへの万雷の拍手とともにかき消された。形の合わないパズルのピースを無理矢理にはめ込んだような違和感の連帯。例えば民主党が政権を奪還したとして、その後、予め包含した認識のズレに、反戦派にはどのような戦略があるのだろうか。いったん動員した「無党派層」の反戦気運を裏切れば、無力感による沈黙の蔓延といった、より深刻な結果を、抵抗運動の側にもたらすだろう。

     それはどこか、普天間飛行場の撤去についての沖縄の議会や論壇における不協和音を連想させる。撤去については大同団結出来ても、その方法、代替地、移設の期限・使用年限などの点で論者の立場は細分化しているのが実情だ。そんなことを考えていた矢先に、沖国大であの事件が起こった。反基地運動の戦略を考えるべき事態は緊迫している。

     60年代の抵抗運動を回顧する視線には、熱い政治の季節への憧憬もある。政治が身近に感じられ発火点があったあの頃はよかったと、失われて今はもうないものへの郷愁を呟く感覚は、現在の無力に口実を与えているように見える。

     8月29日に共和党大会を目前にしたニューヨークで、「平和と正義のための連帯 (UFPJ: United for Peace and Justice) 」が企画したデモ行進が行われた。40万人とも言われる規模のこの統一行動は、厳戒態勢下で「大きな事故もなく平穏のうちに終了」した。ニューヨーク市長は「平和的活動家は歓迎」企画で観光割引など設けて、反戦派の矛先を消費主義で陥落しようと躍起だった。その楽しげな顔の裏で、UFPJが企画したセントラルパーク大集会は「芝生が痛む」「安全が確保できない」ことを理由に使用を許可せず、この市側の思惑を裁判所も追認した。これは憲法修正第1項「集会の自由」の侵害にあたるとして、UFPJは最後まで調整に取り組み、セントラルパークを断念した後も参加者に個人として行動する可能性を示唆した。また参加者が逮捕された場合の法的支援も整えて臨んだ。それでもなお「おおむね無事でよかった」と落着する見解は異論を招く。安全確保の成功を強調する管理側に訓化され、所詮、吠えるばかりで噛みつかないと抵抗運動内部からの批判に晒されたのである。

     米軍ヘリが沖国大に墜落した直後に駆けつけた学生運動の抗議に対しても同様の非難を見かけた。反対は儀礼的で結局本気ではないのだという、一見クールで斜に構えたこうした批評気分には、全く同意できない。抵抗が身体的な苦痛や拘束を辞さないことと、流血の衝撃を欲望する浅ましさには、重なり合う地平すら見つけられない。

     UFPJの大きな統一行動を支えたのは、幾多の独立系行動であった。想像力に富むその抵抗の方法は示唆に満ちている。豪奢ホテルの壁面に上って横断幕を掲げる/全裸になる/恐ろしく沢山の自転車が集まって交通を麻痺させる等々。逮捕者も多く出しながら抵抗の意志を社会に伝えたかれらの行為こそが、連帯デモへの共感の土壌を形成した。映画製作によってメジャーな成功を収めたマイケル・ムーアだが、彼のみが傑出しているのではないことが、草の根の想像力を見れば理解できる。笑い、大袈裟、迷惑行為、常識外れ、これらは単純だが、転覆する力を持つ。

     細分化するイシューを超えて連帯すればその先には解体がある。安全を確保すれば運動の熱が冷めていく。抵抗運動は規模によるエンパワメントを必要とするが、それによって殺がれていくものもある。60年代の運動は、成果の後の挫折こそが参照されなければならない。

     この点で、抵抗の想像力を充満させてきたのが沖縄ではないか。コザ暴動や琉大事件や東京タワーの占拠を参照し意味を与えながら現在につながっているのが、沖縄ではないか。人間の鎖や辺野古の座り込みは、運動の方法を世界の抵抗者に拓く知見となろう。こうした試みを外につなぎ、共感の共同体につなぐのは、ことばを担っている者の、これもまた創造的な抵抗の一端なのだろうと思う。

     抵抗するわたしたちは、飼い慣らし、矮小化するポリティクスと際どくせめぎ合っていかなければならない。拝外主義や、安直なナショナリズムに回収される道を拒否しなければならない。発火点の無いぬるい日常のなかで、反抗を涵養していかなければならい。

    <後記>日常のなかでの抵抗を示すこと。基地のことを基地の中に囲い込まずに、暴露し見せつけることも、そうした戦略の一環となろう。10月にはニューヨークPS1で石川真生氏ほかの写真展が開催される予定。軍隊に入った子供たちが、駐屯先の見知らぬ国でどんな生活をし、その土地の人々にどのように眼差されているのか。戦場の経験ではない、軍隊の日常を直視する機会を米国に提供する展示となることが期待される。


    「記憶する/記録する:ドキュメンタリ映像の方法と解釈」

    ※『けーし風』第43号(2004年6月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。
    阿部小涼「記憶する/記録する:ドキュメンタリ映像の方法と解釈」『けーし風』第43号(2004年6月)。

     ニューヨークでは、5月のトライベッカ映画祭と10月のニューヨーク映画祭が、世界各地の気鋭の映画を大量に観ることが出来る貴重な機会である。なかでもドキュメンタリ映画部門は、筆者の楽しみにしているもののひとつだ。こうした機会を捉えて観たふたつの作品に、「記憶」について考える契機を得たように思う。

     ひとつは、リティー・パニュ監督「S21:クメール・ルージュの虐殺者たち」。ポル・ポト政権下カンボディアのS21と呼ばれた捕虜収容所で起こった虐殺を考証する作品である。生き残った人と虐殺に加担した人とを、収容所跡地で対面させ、何が起こったのかを当事者に再現させる。監督パニュは、全てを理解するとは赦すことと同じだというプリモ・レヴィの言葉を引きつつも、それが困難な途であることを示す。虐殺の記憶という題材だけでなく、それをいかに考証するかという点で、この映画は、クロード・ランズマン監督作「ショアー」の方法を想起させる。もう一度その行為を身体的に再現することは、「ごく普通の人々」が行った残虐行為、「極限状態で、圧倒的な支配下で仕方なかった」行為を、敢えて日常のなかに引き戻す試みである。むろん、これを支えているのはカンボディアの現在に根ざした問題意識である。和解(reconciliation)の困難なプロセスの中で、それでも対話を試みること、そのひとつの方法的帰結として、この作品はある。

     もうひとつは、マイケル・マクヒュー監督「あてにならない証言者」(An Unreliable Witness)。これはアイルランド系アメリカ人のマクヒュー初監督作品となる長編ドキュメンタリ映画である。一九七二年北アイルランドの都市デリーで、公民権運動のデモが英国軍によって弾圧され一四名の死者を出した「血の日曜日」事件が起こった。ブレア政権下の現在、事件の詳細を明らかにする試みが進行中である。この作品は、そこで証言者として立った、ディヴィッド・テレシュチャックの視点で語られる。英国生まれの彼は事件現場にジャーナリストとして居合わせた。その職業意識と運動側への共感から、正確な証言を決意するが、記憶の端々に、後日確認された「事実」と噛み合わない事柄を発見してしまう。そこで事件後初めてデリーを再訪し、関係者から話を聞き、自身の記憶の再構成を試みるのである。記憶や証言の不確かさとどう向き合うのか。再検討委員会の「公式」の結論ではなく、自分たちが考証した「真実」に真摯に向き合おうとする作品だ。ふたつのドキュメンタリはいずれも、被害の側からの記録の不在に起因する「未解決」の事件について扱っている。抑圧の記憶を再構成する試みは、現在を闘うための記憶の政治学の実践に他ならない。

     記録映像ということで言えば、このところの米国メディアを席巻しているのはイラク人捕虜拷問映像の露見に関するものだ。こちらは、さしずめ加害の側の記録がもたらす意図せざる顛末である。まだ明らかにされるべき部分が多い現段階だが、スーザン・ソンタグは『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌に論考を掲載し、理解の手掛かりを示した。彼女によれば、残虐行為の記録写真という点で比較可能なのは、アフリカ系アメリカ人に対するリンチを「記念」して数多作られた絵葉書だという。またごく普通の米国人市民が日常に触れるゲームやポルノグラフィの図式が、撮影の構図に適用されていることなどを指摘し、「戦場」「極限状況」「命令下」ではない日常の中で米国に潜在してきた残虐性に目を向けようというのである。

     ところで、この号の表紙は白い背景に"THE PHOTOGRAPHS ARE US"という言葉が配され単調なだけにインパクトがあった。雑誌はある種の「警句」としてこのことばを選りすぐったように見える。「我々アメリカ国民」への警句。「ここに写っているのは、我々自身の姿だ」。文意からすればソンタグが言う「我々」とは、歴史を通して他者を抑圧して来た「我々」を含意している。彼女は別の論考で、被害の現場からは距離を置いた「我々」の批評を行っており、複数の一人称使用に充分に自覚的である。「他者の苦痛へのまなざしが主題であるかぎり、『われわれ』ということばは自明のものとして使われてはならない」のである。写真に写っているのは、拷問によって縛られたイラク人捕虜の苦痛である。命令に縛られた下級米兵の表情に「我々」の痛みを見出す安易さではなく、トリミングされ隠蔽されている、撮影者としての「我々」について、批評の力を行使しなければならないだろう。

    <参考>


    March 05, 2007

    「カラー・ラインを越えないアメリカ」

    ※『けーし風』第42号(2004年3月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。 阿部小涼「カラー・ラインを越えないアメリカ」『けーし風』第42号(2004年3月)。



     故マーティン・ルーサー・キングJr.の生誕を記念した祝日を目前に、一月十六日、ジョージ・W・ブッシュがアトランタにあるキングの墓に献花した。大統領選を控えた微妙な時期に、戦争を指揮した人物が非暴力のキングを讃えるのは矛盾だと、抗議の声が起こったという*1。これは何かたちの悪いジョークだろうかと、キングを知る人は思うかもしれない。しかし、一九六三年ワシントン大行進での有名な演説の中で語られた彼の夢は、皮肉にも白人保守層の政治と符号する要素を持っている。「私の四人の子供達は、いつか、肌の色ではなく、その人としての資質によって判断されるような国に生きてほしい」。

     教育的な番組製作で知られるPBSは、黒人史月間である二月に合わせて「カラー・ラインを越えるアメリカ(America Beyond the Color Line)」を放送した*2。「二〇世紀の問題はカラー・ライン(人種を隔てる境界線)となるだろう」。これは二〇世紀初頭に、人種差別と闘った論客W・E・B・デュボイスが、著書『黒人のたましい』の冒頭に掲げた予見である。この本が世に問われてから一〇〇年。番組では、ハーヴァード大学の哲学者ヘンリー・ルイス・ゲイツJr.が、さまざまなアフリカ系の人々にインタヴューを行うなかで、豊かな経済機会に恵まれている、刻苦勉励して成功したアフリカ系ミドル・クラスが、それでも白人社会に同一化したわけではないことが明かにされる。目に見えない境界線は依然として横たわっているのである。

     このふたつのエピソードは、アメリカの人種に関する思想的状況の現在を示しているようで興味深い。一九九〇年代以降アメリカでは多文化主義の「行き過ぎ」が批判され、人種を基準としたマイノリティへの差別是正措置が「優遇」と見なされる風潮が支配的となる。マイノリティの存在も、ラティノスやアジア系などに細分化され、「白対黒」という対抗図式を単純に思考することが困難になった。これらが、経済の停滞と保守政権の誕生に重なった。肌の色による差別が法的に廃止された今となっては、マイノリティもその人の資質によって経済機会を決定されているのだという理解。これこそが、保守派がカラー・ブラインド(肌の色を問わないという態度)を掲げ、キングの平等論と親和性を持つ回路に他ならない。アフリカ系で女の大統領補佐官と、ジャマイカ系移民二世で男の国務長官を起用した超保守政権が、公民権運動を継承していると振る舞い、社会的に成功した保守派マイノリティが、機会の平等は必要だが結果の平等はアメリカのエートスに沿わないと証言を加える。

     かたや、「多文化主義」を支えた側は、予め孕んできた理想主義の限界に直面する。多文化主義の融和的イメージがナショナリズムと容易に結び付くこと。自らの内部に潜む人種意識。カラー・ラインの問題は二一世紀になってもなお越えがたく存在することに、左派知識人やマイノリティのコミュニティは膠着した問題を、その内部に抱え込んでしまったようだ。あらゆる事象を言説として捉える脱構築主義、ポスト構造主義などの言論状況も、こうした膠着状態と絡めて再考すべきところだ。人種はもはや生物学的に真実/実態として存在するのではない、という脱構築の議論が、人種を根拠として問題提起すること、あるいは議論し続けることを、無意味化していくような迷走を生んだ。人種(あるいは差異)はつくられたものだとする議論には、だから誰しもが無色無徴の存在としてスタートラインに立てるという平等主義の横車となる危険性が潜んでいる。

     こうした言論状況に対して積極的に介入を行う研究者のひとりに、ロビン・D・G・ケリーがいる*3。特に都市の現地調査を元にした社会学に散見される、人種問題の階級問題への回収を、保守化する全体的な政治的な状況と関連させつつ批判した。人種を根拠とした抵抗を封じるいっぽうで階級に対する福祉政策の切り捨てには、自助努力(self-help)という、アメリカで重んじられるエートスが、正当化のロジックとして巧妙に利用されていることを暴露するのである。九〇年代後半に再び「人種」の問題に対峙する潮流が顕著となるのは、その必要があったからではないだろうか。機会は自助努力によって勝ち取ることが可能なのか。弱者に対する保護はもう充分尽くされたのか。カラー・ラインを越えた機会の平等は実現できていない、その現状を曝すことがゲイツやケリーの狙いでもある。ふとしたニュースに耳を向ければ、それはすぐに判ることだ*4

     一九六〇年代の公民権運動とエスニック・スタディーズの成果と見なされた多文化主義も、保守主義と人種平等主義が限りなく接点を持って形骸化したと、悲観的に議論を終える訳にはゆかない。人種をめぐる議論は、出口なしに見える螺旋状の階梯を辿りながらも議論を深化させる方向に向かっている。主知主義の陥穽を注意深く避けて、人種は構築されたもの、だからこそ、その構築される歴史的プロセスを批判しなければならない。歴史や経験を重視し主体の関係(権力関係)が均質で対等ではないことを出発点としなければならない。「人種」を無意味化する前にやるべきことはまだ沢山ある。



    *1 Richard W. Stevenson, 'Protesters Chant and Boo As Bush Honors Dr. King," New York Times (January 16, 2004).
    *2 ゲイツは、キングの没後30年の1998年にも「二分する黒人アメリカ(The Two Nation of Black America)」と題した番組を製作している。
    *3 Robin D.G. Kelley, Yo' Mama's Disfunktional!: Fighting the Culture Wars in Urban America (Boston: Beacon Press, 1997).
    *4 コロンビア大学では保守系学生グループが、アファーマティヴ・アクション・ベイク・セールと称してマジョリティに高くマイノリティには安くドーナツを販売したという。マイノリティを揶揄する行為に憂慮し学長が公式に批判を加えている。Karen W. Arenson, "Columbia University Leader Condemns Racial Incidents," New York Times (February 25, 2004).翌日のニュースでは、ニューヨーク州の高校で、アフリカ系とラティノスの卒業率が抜きんでて低いことが調査で明かになったと報道された。Greg Winter, "Worst Rates of Graduation Are in New York, Study Says," New York Times (Feb. 26, 2004).

    「沖縄から占領を想像する」

    ※『けーし風』第41号(2003年12月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。

     阿部小涼「沖縄から占領を想像する」『けーし風』第41号(2003年12月)。

     

     「私の知っている知識やあなたから聞く話と随分と違っているように思う」。ルームメイトが持ってきたU.S. Front Line誌には「イラク占領は沖縄を参考に」*1と題された論説が掲載されていた。原文は、コロンビア大学政治科学部のA. クーリーと、K. Z. マーテンによって『ニューヨークタイムズ』紙に寄稿された"Lessons of Okinawa"(沖縄の教訓)*2である。米軍はイラク占領にあたって、住民との関係が良好な沖縄の教訓を生かせ、と主張しているように読めるその内容に、原文で読んだ記憶をたぐり寄せながら、何か違和感を覚えた。


     この論説は、在沖米軍の経験を活かして、地域住民に寄り添った占領政策を展開すべきだと主張している。問題はその例示の内容である。沖縄では1995年のレイプ事件後の犯罪防止対策が一定程度の成功を収めており、軍は地域経済へも多方面で貢献しており、基地問題の連絡会議に日米両政府と並んで沖縄も参画している。これらの上首尾な経験の結果、沖縄には反米活動はなく住民は米軍を自分たちの味方だと考えている、というのである。詳細にわたる反論は控えて、ただひとつの矛盾点を指摘するにとどめる。すなわち、沖縄での「占領」は、公式には1972年の「本土復帰」によって終了したはずだ。もちろん論説でもそれは述べられており、論者たちにも周知の事実だ。にも拘わらず、20年以上も後の性暴力事件とその後の対応を「占領の教訓」と捉えて例示する政治学者の安穏。このテクストは図らずも「終わることのない戦争の継続のなかにあるのが沖縄」*3だという現実を、皮肉な形で暴露しているのである。


     沖縄占領モデルが想起される背景についてもう少し考えてみたい。イラク占領に関して米国の論壇では、第二次大戦後の日本占領をモデルとするというレトリックが流通し、これに対する賛否両論が闘わされて来た。「占領モデル」は、政府・軍関係者の間で既に戦争中の段階から模索と検討が行われており、そのひとつの保守派的着地点として、日本占領モデルは存在する。第二次大戦後の日本占領は、民主化の成功例として持ち上げられ、イラク占領もまた同様の民主化を目的としていることを喧伝するのである。その言説の背後に保守派の思惑を読みとった多くの歴史家達、特にC.グラック、A.ゴードンなど、在米の日本研究者達は、それぞれの専門領域の立場から警鐘を鳴らして来た。なかでも早い段階で、沖縄に言及してこれを批判したのは、管見の限りでは、『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーであろう。彼は今年3月末の段階で、イラク占領のモデルとしては、日本占領は異質な点が多いことを指摘し、むしろ「アメリカの軍事帝国がグロテスクにはみ出してしまったような」沖縄占領のほうが類推に相応しい、と発言している*4


     ダワーによる「むしろ沖縄」という主張は、聞く側の位置によって、微妙な温度差を伴って伝えられたのではないか、と私は見ている。例えば、金平茂紀はダワーとの対話から、日本を担ぎ出すのは民主的な占領と見せるためのブッシュ政権の「詐術」であると、米国保守派のレトリックを暴く批判を重視し、「(本質的には基地存続によって『占領』が継続している)沖縄こそが、イラクの今後の現実に近い」との発言を紹介しつつ、沖縄占領の問題性と重ね合わせるようにフォーカスする*5。これと対照的なのが例えば船橋洋一によるダワーの紹介である。彼はイラクの現状との比較から「日本」の敗戦後と民主化の軌跡を論じたところを重視し、日本の戦後史評価のほうに注目していくのである*6。両者によるダワーの「読み」は異質である。


     このように見てくると、冒頭の論説「沖縄の教訓」は、ダワーの「むしろ沖縄」批判を、完全に読み替え、すり替えた保守派ヴァージョンとして見なすことが出来よう。「沖縄モデル」の中にこそ米軍の民主的配慮をくみ取ろうというのである。論説は「沖縄の経験に学べば、米国はイラク占領を成功させ、早々に部隊を帰国させられる」と結論する。なるほど、さっさと帰ろうというときにこそ、占領は沖縄から想起されるべきであろう。占領は沖縄ではまだ終わっていない。これこそが「沖縄の教訓」ではないのか。


     さらにこの論説が日本語に翻訳されて在米日本語誌に再掲載されるということの意味についても考えざるを得ない。例えば次のような一文がある。「米当局はイラクの中央政府だけではなく、(とくに、沖縄のように、それが明確に異なるエスニック集団を代表している場合には、)地域政府との間にも緊密な連絡網を確立しなければならない」。括弧内は、原文にあって翻訳からは削除された部分である。論者のひとり、マーテンは、日本占領モデルを批判する根拠として、その社会的均質性がイラクの多民族・多宗教的状況と異なることを主張する論客である。著者たちは恐らく意図を込めてこの部分を書き込んだ。ところが翻訳のプロセスでそれは抜け落ちた。意識的かそうでないかは想像するほかないが、このような些細なところに「日本」の沖縄に対する眼差しが現れていないだろうか。問題を沖縄にずらしておく限り、敗戦から立ち上がった奇跡のような私達の過去は傷付くことなく、沖縄の悲惨とは他人面をしながら、そのレトリックに付き合っていけるような、そのような眼差しである。



    *1 「イラク占領は沖縄を参考に」U.S. Front Line, No. 192 (August 20, 2003), pp.59-60. U.S. Front Line誌は、ニューヨークとロスアンジェルスを中心に広く知られる在米日本語情報誌のひとつである。隔週刊で出るこの雑誌には様々な生活情報などと共に、毎回『ニューヨークタイムズ』紙の社説・論説がいくつか翻訳紹介される。
    *2 Alexander Cooley and Kimberly Zisk Marten, "Lessons of Okinawa," New York Times, July 30, 2003.
    *3 新城郁夫『沖縄文学という企て:葛藤する言語・身体・記憶』インパクト出版会2003年、6頁。
    *4 David Wallis (Interview), "The Way We Live Now: 3-30-03: Questions for John W. Dower; Occupation Preoccupation," New York Times , March 30, 2003.
    *5 金平茂紀「イラク占領と沖縄占領:『大義』の裏に軍事戦略:民主化イメージは詐術」『沖縄タイムス』2003年5月1日。
    *6 船橋洋一「船橋洋一の世界ブリーフィングスペシャル:イラク、マッカーサー型占領の幻想」『週刊朝日』2003年4月18日。

    「ドミニカン移民研究の模索」

    ※『けーし風』第40号(2003年9月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。
    阿部小涼「ドミニカン移民研究の模索」『けーし風』第40号(2003年9月。

     すでに旧聞に属することであるが、米国における国勢調査センサスが2000年の調査結果として報告したなかでも耳目を集めたのは、「ヒスパニックス」がアフリカ系を抜いて最大のマイノリティ集団になった、という事実であった。


     2000年センサスは、従来の選択肢に加えて、6番目の排他的カテゴリーとして「ヒスパニックス」を設けた。これまでは追加的な質問項目であったヒスパニックスが、ひとつの選択肢として成立した最初のセンサスでもあったわけだ。ある意味ではその結果としてのヒスパニックスの「増加」で、全国人口の12.5%を占めるに至り、アフリカ系の12.3%を抜いて最大のマイノリティ集団となった。


     ニューヨーク市で、この傾向はより顕著に表れている。2000年センサスの統計とニューヨーク市の調査に基づく報告によれば、ニューヨーク市の人口のうち「非ヒスパニック白人」が35%、それに次ぐヒスパニックスは27%を占めた。なかでもこの10年間でのヒスパニックスの増加率が21.1%となっていることは注目に値するだろう。ニューヨーク市におけるヒスパニックスのなかでも際だつふたつのエスニック集団が、プエルトリカンとドミニカンである。どちらも、カリブ海域からの移民で、スペイン語を話し、人種的には混血が多いと見なされるなどの共通項を多く持っている。しかし、両者の間には微妙な線引きがあるようで、生活文化基盤における接点が意外なほど少ない、というのが筆者の直感的な印象である。例えばマンハッタンのなかで、プエルトリカンとドミニカンの拠点となる地区にはズレがある。


     ドミニカン移民の増加は、米国における比較的新しい移民傾向である。ドミニカ共和国では1961年、長く続いたトルヒージョ独裁政権が崩壊し、その後の混乱に乗じて1965年には米軍が介入する事件も起こった。移民は、経済・社会不安の緩和政策として、米・ドミニカ両政府の取り決めによって開始された。さらに1980ー90年代初頭にかけての経済状況の悪化は、家族呼び寄せなどのプログラムも利用した移民数を急増させた。公的に確認されている年間入国者数は1961年の3,045人から徐々に数を増やし、1981年には18,220人、1986年には26,175人が米国へ入国したとの統計もある。実数を特定することは困難とされるが、2000年以降現在では、少なくともドミニカ共和国本国人口の10%に相当する80万人が米国に在住すると見積もられている。


     ドミニカン移民の拠点であるワシントンハイツは、マンハッタン島の北端に位置する行政区画で、南側にハーレム、西側はハドソン川、北側と東側をハーレム川に挟まれた155丁目以北のことを言う。2000年の統計で地域人口20万8千人のうち、白人の13.6%、アフリカ系の8.4%に対して、ヒスパニックスは74.1%と他を圧倒している。アフリカ系、白人人口がこの10年間で2割以上減少したのに対して、ヒスパニックス人口は16.3%の増加傾向を示した。このことは、この地区のヒスパニックスの多くが、今なお移民として流入するドミニカンであることと無関係ではない。


     ドミニカン移民に対するイメージは、このワシントンハイツの地区イメージとともに変化しながら今日に至っている。当初、ドミニカからの移民の多くはミドルクラス出身で、米国への移民としては新しいグループだが移民後も軟着陸を果たし、エスニックビジネスを定着させながら比較的成功している、といった研究も見られた。しかし80ー90年代にかけての移民の急増以後、低賃金労働や犯罪との関与が指摘されるようになる。これはワシントンハイツの社会環境の悪化と並行している。マイノリティの弾圧で悪名高い90年代のジュリアーニ市政期にはドラッグディーリング撲滅を目的として警察による抑圧的捜査と強制的な取り締まりが行われた。気鋭のアフリカ系映画監督ジョン・シングルトンによってリメイクされた映画『シャフト』(2000年)では、157丁目の地下鉄駅から160丁目周辺の様子が「ドラッグディーラーのアジト」がある町並として描かれており、当時のワシントンハイツ周辺とドミニカンに対する一般的なイメージと重ね合わせられて興味深い。じっさいNYPDのパトロールは頻繁に行われているし、警察と消防を呼ぶための通報ボタンが路上に設置されている。郵便局の窓口は防弾ガラスで覆われ、ボデガと呼ばれる小規模の食料雑貨店のなかには、回転する窓で現金と商品の受け渡しを行うようなところも多い。それは、住民にとっては非常な抑圧的環境であり、警察による弾圧に対する不信感や抵抗が暴動を生むなどの苦い経験を、この町は経てきた。2000年代に入ってからは「安全になった」との声も聞かれ、それらは不動産ディーラーの思惑を反映しながら人口に膾炙しつつあるようだ。今年公開されたアルフレド・デ・ビジャ監督『ワシントンハイツ』(2003年)は、脚本の傍ら自ら主演もつとめたマニー・ペレスや、脚本に関わったとされる小説家ジュノ・ディアスらドミニカンたちが、自己の経験に寄り添いながら、このコミュニティを大切に生きる人々、経済的成功と脱出を夢見る若者などの姿を、誇張を避けながら丁寧に描いた秀作である。こうした映画が製作・公開されるところを見ても、「かつての暗い時代」を思い起こすだけの余裕が可能になったと言えるのかもしれない。


     中心を通るブロードウェイ沿いはボデガや、「ブラーボ」、「エル・ヒガンテ」などの名前のスーパーマーケットが軒を連ね昼夜を問わず賑わっている。店頭に並ぶ商品も、プラタノ、ユカ、シラントロ(コリアンダーのこと)などの野菜類、ココナツやタマリンドのジュース、エスプレッソ用のコーヒーの粉、ビールならプレシデンテなど、ドミニカンの生活色に彩られている。金物屋などの生活に根ざした商店のほか、本国への格安航空券を扱う旅行代理店、安く国際電話をかけさせる電話ブースを備えた電話店などが多く見られるのも、こうした地区の特徴である。


     ワシントンハイツでは、故郷ドミニカの政治に関するキャンペーンも盛んである。これはドミニカ共和国側の法が二重国籍を認めるため、米国籍を得てもドミニカ市民権を放棄しなくてよいことによる。ニューヨークのドミニカン移民コミュニティは、ドミニカ本国の政治家にとって重要な票田と政治資金源を成しているのである。いっぽうでこのことは、ドミニカンの米国市民権申請率の低さとなって現れる。米国への「定着」が疑問視されるゆえんでもある。しかし1991年に選挙区の改訂が行われた結果、ドミニカン初の市議会議員も選出され、地区を通る幹線道路のひとつは独立指導者の名前ファン・パブロ・ドゥアルテ通りと命名されるなど、地域への定着を象徴する動きも進んでいる。


     そのような影響のひとつとして、ドミニカ協会(Alianza Dominicana)が計画中のドミニカン移民文化施設は、「アフロ・キスケジャ(Afro-Quisqueya)文化センター」という名称が付されるという。「キスケジャ」とは、先住民による呼称に由来し、クリストバル・コロンの到達によってエスパニョラ島と「命名」されることになった島、すなわちドミニカ、ハイチの島を指している。プエルトリコにもボリンケンという別名があるように、ドミニカンはキスケジャを店の看板などにも好んで使用している。ここにアフリカ系というアイデンティティを重ね合わせるところに、米国におけるドミニカン移民の、人種意識をめぐる独特の姿勢を見ることが出来よう。


     センサス統計では複数形で表現された「ヒスパニックス」の内部にある人種・出身地の多様性や相克は不問にされている。出身地やコミュニティ内部の人種による階層化を覆い隠すような「ヒスパニックス」という語法の政治的意図については、注意深く検討する必要があるだろう。本稿では、そのような思考の一端として、今後拡大することが期待されるドミニカ系移民研究について、その端緒となる事例をわずかに示したにすぎない。プエルトリカンの後に増加したドミニカンは、パターンの相似性などから見過ごされてきた点も多い。また両者の関係性や単一のグループでは語り尽くせない中間的存在、両者のあるいは内部の人種をめぐる対立によって刻印されるアイデンティティの相互作用などは、充分に分析されてきたとは言い難い。移民研究が単一の集団の成功物語を強化し、自集団のアイデンティティ覚醒やリドレスに資する「ための」研究であった20世紀的方向性を、少しずらしていくことが、ドミニカン移民研究の今後の課題として期待される。あるいは、各人種・民族集団が、移民先での経験・経過年数を経るなかで発展・定着していくプロセスを踏むと考える歴史観では充分に汲み尽くせなかった問題領域を明かにする可能性も内包している。国家との関係の持ち方、人種意識、成功の語りなど、これからの移民研究が取り組むべき多くの豊かなテーマを擁しているのである。


    <ニューヨークのドミニカン移民研究のためのレファレンス>

    • Reference, New York City Department of City Planningニューヨーク市都市計画局統計資料
    • The CUNY Dominican Studies Institute, City University of New York at City College
    • Ramona Hernandez and Silvio Torres-Saillant, "Dominicans in New York: Men, Women, and Prospects," Gabriel Haslip-Viera and Sherrie L. Baver eds., Latinos in New York Communities in Transition (Notre Dame, Indiana: Univ. of Notre Dame, 1996).
    • Julissa Reynoso, "Dominican Immigrants and Social Capital in New York City: A Case Study," Encrucijada/Crossroad, 1-1 (2003).
    • Milagros Ricourt and Ruby Danta, Hispanas de Queens: Latino Panethnicity in a New York Neighborhood (Ithaca: Cornell Univ. Press, 2003).
    • Terry Williams, The Cocain Kids: The Inside Story of a Teenage Drug Ring (Cambridge, Massachusetts: Perseus Books, 1989).
    • Ed Morales, Living in Spanglish: The Search for Latino Identity in America (New York: St. Martin's Griffin, 2002).

    「戦争と市民権」

    ※『けーし風』第39号(2003年6月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。


    阿部小涼「戦争と市民権」『けーし風』第39号(2003年6月)

     去る四月五日ニューヨーク市のハーレムで、イラク戦争に反対するデモ行進が行われた。ニューヨークに多いアフリカ系アメリカ人のイスラム教徒組織、改めて組織を立て直しているというブラックパンサー党、労働者組織など多くのアフリカ系団体が、反戦連合(The Black Solidarity Against the War Coalition)を結成して企画したものである。この戦争を「人種主義者の戦争」と捉え、「人種主義政府と大企業によって依然として人権を踏みにじられているのは、我々の子供たちや家族だ」と主張した(この件については別の場所で短く紹介したので参照されたい)。


     この反戦マーチにも登場して演説を行ったチャールズ・ランゲル連邦下院議員(民)といえば、徴兵制の復活を求める法案を提出して賛否両論を呼んだ人物である。ハーレムを支持基盤とし連邦議会の黒人議員派閥の中心的存在でもある彼は、軍隊の、特に下士官の人種構成がアフリカ系とマイノリティに偏重していることを指摘し「白人も黒人も平等な負担を負うべきだ」という主張を展開したのである*1


     ニューヨークでは、戦争への不支持がマイノリティに多いという傾向もたびたび指摘されていた。そこには、「われわれ」の人権が蹂躙されているのだという主張があった。戦時に愛国心の表明がなかば強制されるような雰囲気のなかで、「国民として戦争に反対するのだ」という声も聞かれた。戦争に反対することは、米国市民としての権利を守ることを意味していた。戦争への支持も不支持も、いずれも国を愛する気持ちから起こることだ、と結論することで落着する。このような語り方は、日系移民史のなかで長く伏せられてきた徴兵拒否者の存在を受認するコンテクストにも見られた。「ナショナリズムの語り」が、左右を問わずあまりにも強く支配していることに逡巡を覚える。


     同じ頃、ハーレムのさらに北側に位置するワシントンハイツと呼ばれる地区では、地元出身の兵士が遺体となって帰還した。戦死した二六歳の海兵隊員リアヤン・テヘダは、ドミニカ共和国からの移民であった。残された家族の悲しみを伝える以上に、連日放映されたニューヨークのテレビ報道の内容は、その彼を英雄として賛美するものであった。葬儀の行われたワシントンハイツの聖エリザベス教会で、ニューヨーク市長ブルームバーグは「彼はアメリカ市民ではなかったが、ニューヨーク市民」であり「全ニューヨーカーの英雄」なのだと讃えた。テヘダはアメリカ合州国市民権を得ていなかったのである。


     米軍における市民権を持たない者の入隊は、今日に始まったことではない。第1次大戦以来、二十七万人もの人々が軍役に就くことによって市民権を獲得してきた歴史がある。軍隊に志願することは、じっさい、市民権取得への近道と言われている。通常、永住権を持つ者が市民権を取得するには五年間の米国滞在が条件とされている。軍務に就くとこの期間が三年に短縮され、兵士とその一親等以内の家族に市民権が認められるというのである。さらに、二〇〇二年七月にはブッシュの大統領命令により、九・一一以後に軍務に就いている永住権所持者はすぐに市民権認定の資格を付与するとした。これによって一万五千人が市民権取得の資格を得て、六千三百人が市民権の申請を行ったという。防衛局(Defense Departments)の発表によると、米軍(予備役ではなく正規軍)には現在、三万七千人の市民権を持たない永住権所持者が所属しているという。これは米軍全体の五パーセントにも上る。かれらの三分の一はメキシコその他のスペイン語圏からの人々で構成されている。また、ニューヨーク市で見れば兵役募集状況のなかで移民の占める割合が、海軍で四〇%、海兵隊三六%、陸軍二七%とも言われている。しかし市民権のないこれらの兵士は、「保全許可認定(国家機密へアクセスする許可)」を得られない。この条件が、上官への昇進を阻んでいる。換言すれば、移民兵士ほど下士官として戦闘の最前線に送られ易い状況がつくられているのである。


     イラク戦争の戦死者の一割は、アメリカ生まれではなかったという。その中には一〇名の市民権を持たない永住権兵士が含まれていた。少なくとも六名が死後に市民権を付与された(家族へのには認められなかったというが)。永住権兵士を英雄視する世論の背後には、その「国」に捧げた尊い死に対する恩寵として市民権を授けるという高見に立った感覚があり、「アメリカ合州国市民権」が命に値する羨望の対象であると当然視するような価値観が支配している。従軍を「市民権」や「上昇」の機会と捉える移民やマイノリティの行為を、生存戦略やしたたかさと解釈するときに、このような市民権に対する価値付けは自明のものとされてしまう。生きるために、海の向こうの殺戮に荷担することの欺瞞に、かれらがどのように対峙しているのかという点は見失われてしまう。リアヤン・テヘダの家族は無くなった息子への市民権の「名誉」を拒否した。テヘダの父は「もう遅すぎるよ。紙切れ一枚で息子が帰ってくるわけでもない」と言った。



    *1 この件は日本の新聞でも報道されている。福島申二「米軍支えるマイノリティー」『朝日新聞』二〇〇三年四月一七日)。

    「カフェ・コン・レチェNY通信」

    2004年2月から2005年5月まで『沖縄タイムス』紙に10回連載されたもの。タイムスの方針転換によりバックナンバーのリンクがすべて無効に。掲載時の写真も自分で撮影したものだったので、いつか復元したいと思いつつ、とりあえずそのままこちらに。



    阿部小涼「カフェ・コン・レチェ NY通信」

    『沖縄タイムス』紙掲載(連載は終了しました)。
    沖縄タイムス社バックナンバーは以下から(ただし掲載時の写真はありません)。



    NYTピッツァトクラシー記事の翻訳

    以下の翻訳は2004年9月のNYT報道を掲載直後に翻訳し、その後ご意見を頂きつつ改訂したものです。リンク切れなどあると思うが、過去ログから、まずはそのまま転載。

    • はじめに:米軍ヘリ墜落に抗議する宜野湾市民大会の翌日、New York Times紙は、この事件についての記事を国際面に大きく報道した*1。内地の新聞が沖縄の事件を過小評価しているという憤懣も手伝って、このNew York Times紙の報道は無条件に肯定的に歓迎されてしまうのではないか、との危惧があり、大急ぎで翻訳した。ちょっと意味不明な部分もあり、日英文の両方を併記し、参考となるリンクと訳者自身のコメントを含めた註も付したものをここに掲載する。ご意見・ご感想を宜しくお願いします。誤訳は見つかり次第訂正していく予定。日本語訳部分はご自身の責任の下に加除訂正して自由に御利用下さい。
    • 出典:James Brooke, "A Crash, and the Scent of Pizzatocracy, Anger Okinawa," New York Times, September 13, 2004.
    • September 13, 2004
      GINOWAN JOURNAL
      A Crash, and the Scent of Pizzatocracy, Anger Okinawa
      By JAMES BROOKE
      2004年9月13日
      宜野湾ジャーナル
      「墜落、そしてピザ支配体制の匂いに怒る沖縄」
      ジェームズ・ブルック

       GINOWAN, Okinawa, Sept. 12 - For years, Okinawans have tolerated the deafening thud-thud of United States Marine Corps cargo helicopters over schools, playing fields and apartment buildings near the fence of one of the busiest military airfields of the Western Pacific.
       沖縄県宜野湾市、9月12日付け。もう何年も、沖縄人は耳を劈く騒音に悩まされてきた。フェンスに隣接する*2学校、競技場、アパートの上空を、米国海兵隊のカーゴ・ヘリコプターがバリバリと飛ぶのである。ここには西大平洋のなかでも最も使用頻度の高い軍事飛行場のひとつがある。

       Some shrugged when one helicopter spiraled from the sky on Aug. 13, banging into a university building, its rotor gouging a concrete wall, its fuselage exploding into an orange fireball. Miraculously for this congested city of 90,000, no one was killed, and the only people injured were the three American crew members.
       8月13日、一機のヘリが上空で旋回を始めたとき、肩をすくめてみせた人もあった*3。ヘリは大学の校舎に激突し、ローターがコンクリートの壁をえぐり、胴体が爆発してオレンジ色の火の玉と化した*4。9万人が住む人口密集地で奇跡的に誰も死なず、負傷したのは3名の米国人乗組員のみであった。

       But what really galvanized residents of this sultry tropical island were images of young American marines closing the crash site to Japanese police detectives, local political leaders and diplomats from Tokyo, but waving through pizza-delivery motorcycles.
       だが、このうだるように暑い熱帯の島で住民の怒りに本当に火を付けたのは*5、事故現場から日本の警察、地元政治家、東京から来た外交官を締め出し、その一方でピザ配達のバイクは手招きして中に通した若い米国人海兵隊員の姿であった。

       One month after the crash, that fast-food delivery image - part truth, part urban myth - was strong enough to help to draw about 30,000 people on Sunday for the biggest anti-base protest in Okinawa since those a decade ago protesting the rape of a 12-year-old schoolgirl by three American servicemen.
       墜落の一月後になっても、このファスト・フード配達のイメージ(部分的に真実だが一部は都市の神話になっているのだが)は強烈であり、その結果、日曜日の反基地抗議集会に約3万人の人々が足を運んだ*6。これは、沖縄では、12歳の児童が3名の米兵にレイプされた10年前の事件に対する抗議集会以来の、最大規模のものとなった。

        In the sea of parasols, sun hats, balloons and banners, Chikako Oguma, a high school teacher, sat on the main soccer field of Okinawa International University. She said she had rummaged through her drawers to find an anti-United States protest shirt that she had not worn for years.
       日傘、帽子、風船と横断幕の溢れる沖縄国際大学のサッカー競技場に、高校教師のオグマ・チカコ*7さんも腰掛けていた。彼女はもう何年も着ていなかった反米抗議シャツを、洋服ダンスをかき回して探したと言う。

       "At first when the accident happened, I did not get angry," Ms. Oguma said, shading herself under a parasol. "But then I learned that Japanese police could not enter the area. At that time I felt Okinawa is really occupied by the U.S., that it is not part of Japan."
       「事件が起こった当初は、私は怒りを感じていませんでした」、オグマさんは、日傘を差しながら語った。「でも、日本の警察が現場に入れなかったことが判って、その時に、沖縄は全く日本の一部ではなく、米国に占領されているんだと感じたのです」。

       "Tokyo doesn't care; Mr. Koizumi didn't come," she said, referring to Japan's prime minister, Junichiro Koizumi. "He was too busy last month watching the Olympic Games to see our governor. I feel a gap between Tokyo and here."
       「東京は無関心で、小泉さんも来なかった」彼女は、日本の首相、小泉純一郎についてこう指摘した。「先月、首相はオリンピックを見るのに忙しいからといって、知事に会わなかったのです。私は東京とこことのギャップを感じてしまいました」*8

       Indeed, beneath the overnight surge of anti-American feeling is a surge of regionalism in Japan's southernmost islands, an archipelago known until the 1870's as the independent Kingdom of the Ryukus.
       確かに、にわかに出現した反米感情のうねり*9の背景には、日本の最南端の島の地域主義の高まりがある。この諸島は1870年代までは、独立した琉球王国として知られていたのだ。

        "Go back to Japan," was an insult thrown at soldiers of the Japanese Self-Defense Force, seen as deferring to the Americans running the crash site.
       「日本に帰れ」との怒号が、日本の自衛隊隊員に浴びせられた。事故現場は、そこを仕切っていた米国人にすっかり委ねられているかのようだったのだ。*10

       "The behavior of the soldiers was really shocking," said Kelly Dietz, a Cornell University doctoral candidate in sociology who lives near the base, referring to the Americans. "I saw marines pushing people back, covering news cameras with their caps, pushing cameras down."
       「兵士たちの行動は本当にショックだった」、コーネル大学院で社会学の博士論文を準備中のケリー・ディーツさんは、現在、基地の近所に住んでいるが、米国人についてこのように語った。「海兵隊員が、人々を押し戻したり、報道陣のカメラを帽子で覆ったり、カメラを降ろさせたりするのを、私は見ました」。

       Ms. Dietz, whose apartment is near where the helicopter's tail rotor landed, recalled watching a group of marines blocking access to a group of senior Okinawa police detectives.
       ディーツさんは、ヘリコプターの尾部回転翼が落下した場所の近くにアパートを借りており、海兵隊員の一団が、沖縄県警の幹部クラスの人々が現場に接近しようとするのを遮断した顛末を見ている。*11

       "People were getting very angry, they were shouting, 'What country are we in?' " recalled Ms. Dietz, who took part in the protest on Sunday.
       「みんなとても怒っていました。『いったい自分たちはどこの国に住んでいるのだ』と叫んでいました」、想い出しながらそう語ってくれたディーツさんも、この日曜日の抗議に参加した*12

       But while the protesters marched outside, frustration reigned inside the fence of Marine Air Station Futenma. The American marines were angry that no one gave credit to the pilots who had wrenched their helicopter away from a populated area, or marines who, after spotting the struggling craft, scrambled over two 15-foot chain-link fences, raced through the campus and dragged out the three injured crewmen before the copter blew up.
       外側では抗議の行進が行われているいっぽうで、しかし、米国海兵隊普天間飛行場のフェンスの内側では不満の声が支配的であった。ヘリを旋回させて人口密集地から遠ざけた乗組員や、墜落する機体を発見した後、鎖で繋がれた15フィートのフェンスを越え、大学キャンパスを抜けて現場に急行し、ヘリが爆発する前に負傷した3名のクルーを助け出した米海兵隊員たちのことを、誰も正当に評価してくれないことに、怒りを感じているのだ。*13

       "It would have been irresponsible to allow people to walk through the wreckage," Lt. Gen. Robert Blackman said in his office on Sunday. "If there were Domino's guys getting around the outer cordon, they were not getting through the inner one to deliver pizza to the wreckage."
       「人々に機体の残骸の上を歩かせたりしていたらそれこそ無責任だったでしょう」、ロバート・ブラックマン中将*14は、日曜日に彼の執務室でこう語った。「しかしドミノ・ビザの配達のばあいは、警戒線の外をうろうろしていても、残骸の現場にピザの配達が出来なかったでしょう」。

       "We were basically following procedures, guidelines of longstanding application," he added, referring to a five-decade agreement that allows the United States to investigate accidents caused by American military personnel while on duty but off base in Japan. But the backlash has been so great that on Friday, American officials agreed to renegotiate accident guidelines with Japan.
       「我々は基本的に、長年にわたって適用されてきたガイドラインの手続に従っていました」、彼はこう付け加えた。これは、米軍が任務中に基地外の日本領土で起こした事故については米国による調査を認めるという、50年にわたる協定*15のことを言っている。だが、反対が非常に大きいことを踏まえて、金曜日には、米国は公式に、日本との間で、事故の際のガイドラインを再検討することに同意した。*16

       At Futenma, one of two American airstrips in Okinawa, there is a larger frustration. Built more than 50 years ago on flat land surrounded by sugar cane fields, it is now surrounded by neighbors who want it closed.
       普天間は、沖縄に2箇所ある米軍滑走路のうちのひとつであるが、より大きな困難を抱えている。50年以上前に、サトウキビ畑に囲まれた平坦な土地に建設されたこの滑走路は、現在では、ここを閉鎖したいと思っている近隣住民に囲まれているのだ。*17

       Paint is peeling, there is a hole in a hangar roof, and Col. Richard W. Lueking, the base commander, complains that "temporary" offices have served for 10 years. Construction stopped in 1996, when the United States and Japan agreed to build an alternative site at Nago.
       塗装は剥がれ、格納庫の屋根には穴が空いていると、基地の司令官であるリチャード・ルーキング大佐*18は「仮の」執務室をもう10年も使用しているのだとこぼす。米国と日本が代替施設を名護に建設することに合意した1996年に、工事はストップしたのだ。

       Critics deride the plan as a classic sop to politically connected construction companies: a $2 billion floating helicopter base that would be built on the other side of Okinawa, in a rough area nicknamed "typhoon alley." The military's plans involve blowing up a coral reef, then building a huge landfill and a steel platform nearly a mile long.
       批評家は、計画は政治的に癒着した建設業者に対するよくあるご機嫌取りだと冷笑する。2億ドルの海上ヘリ基地が、島の反対側に建設されることになっているが、そこは「台風の通り道」と称される気候条件の厳しい場所である。軍の計画には、環礁を破壊して巨大な埋め立て地と1マイルに及ぶの鋼鉄のプラットフォームを建設することも含まれている。

       At last count, the plan is opposed by 400 international environmental groups, 889 international experts on coral reefs, a majority of voters of Nago in a 1997 referendum, a lawsuit in United States District Court in San Francisco and a sit-in protest that has lasted for 147 days.
       大詰めの段階で、この計画はさまざまな反対にあっている。400の国際環境団体と889の国際的な環礁専門家の反対のほか、1997年に行われた名護の住民投票では反対が多数を占め*19、米国サンフランシスコ地裁では訴訟*20もあり、そして現在、座り込み運動*21が147日間続いているのだ。

       Last Thursday, Japan's government surreptitiously tried to send survey ships to visit the offshore site to drill 63 test holes in the coral. But the ships were met and harassed by a flotilla of sea kayaks, several piloted by local women in their 60's who have been training for the past year in maritime disruption tactics.
       先週の木曜日に、日本政府は秘密裏に調査船を出し、沖合の環礁に63箇所の穴を掘削しようとした。調査船はシー・カヤックの一群に遭い妨害を受けたが、これらのカヤックの漕ぎ手には、海上での妨害作戦のトレーニングを積んできた60代の地元女性たちも含まれていた。*22

       In Tokyo, Yukio Okamoto, a former Okinawa adviser to the prime minister, feels as if he has seen this before.
       東京で、元総理大臣補佐で沖縄について助言したことのある岡本行夫さん*23は、これは以前にも見たことがあるような状況だと感想を述べた。

       "When Okinawans feel isolated from the central government, they rise," said Mr. Okamoto, now a lobbyist, as he recounted waves of anti-base sentiment since World War II. "It may be happening again."
       「沖縄の人々が中央政府から見捨てられたと感じれば、かれらは立ち上がります」。現在はロビイストである岡本さんは、第二次大戦以来の反基地感情の波が高揚した事例を列挙しながら、そう語った。「同じようなことがまた起りつつあるのかもしれませんね」。

      *1 『沖縄タイムス』紙がこの扱いについて紹介している
      *2 宜野湾市HP航空写真で、普天間飛行場と周囲の様子がわかる。
      *3 原文"shrugged"ですが、びっくりして身ををすくめたのか、「また何か事故でも起こったか」とうんざり気味に肩をすくめたのか、この身体表現はちょっとよく分かりません。「まぁしょうがないと肩をすくめるむきもあった。」by松原宏之氏。
      *4 事故当時の写真については、写道部や宜野湾市企画部広報交流課米軍ヘリ墜落事故抗議写真展を参照されたい。
      *5 「トロピカル」に込められた意味には充分に注意しなければならない。意地悪な見方をすれば、普段はのんびりと=怠惰に過ごしている南の島の人々、といった言外の想定がここに潜むのではないだろうか。
      *6 この記事で気にかかることのひとつは、宅配ピザについての地元の反感を強調する視点だ。関連ありそうな報道を地元『沖縄タイムス』紙の記事に求めてみる。「事故の翌日からは立ち入り禁止を示すイエローテープの内側で米兵がピザを食べたり、カードゲームをしたりする姿が確認されたほか、事故機周辺を防護服を着ずに歩き回るなど、“緊急性”は薄れていた」『沖縄タイムス』04年8月30日、あるいは、「 機体が運び出されるまで六日間。交代で現場を警備した若い兵士には、ラジオのスポーツ中継を聞きながら任務に就いたり、ピザを食べながら仲間の冗談に笑い転げたりするなど、緊張感のない行動が見られた」『沖縄タイムス』04年9月5日などがこれに相当するだろう。米軍と沖縄との関係性を象徴するエピソードの断片に過ぎないこの出来事だけで、沖縄の人々の怒りが沸点に達したわけではないことは、言を待たない。批判的なムードの機に乗じたデマにつられて、反対運動が盛り上がっているのではない。基地問題をめぐるより多くの事実を踏まえた行動であることを、指摘しておきたい。
      *7 漢字の表記は不明なのでカタカナで失礼いたします。さらに誤記がありましたので訂正しました。お詫び申しあげます。
      *8 「東京は」というのは「ワシントンは」に相似する本国政府の代名詞だろうが、沖縄の人はあまりこういう風に言わないような気がする。「日本は」「内地は」「ヤマトゥは」だったかも知れないと勝手に想像してみる。小泉首相の暢気な動向については、普天間の米軍ヘリ墜落事件。首相は優雅な夏休み、あるいは写道部への「ひが」氏コメントでまとめられている首相動静を参照されたい。ところで稲嶺沖縄県知事の動静は?彼は「休日には頭をカラッポにしたい」首相に会えなかったことで、「内地」的には沖縄の悲哀を一身に背負って立ったように見なされるが、事故現場に急行しなかった。写真家の石川真生氏はインタビューで「知事は県民の親なのに、沖縄に帰って二日後にしか現場に来なかった。子供が病院に運び込まれたと聞いて、家で一服してから病院に行く親がいるか。真っ先に駆け付けるはずだ」と指摘している。県知事がこうした批判に晒されていることも、小泉首相の挿話と並べておくべきだろう。
      *9 原文"the overnight surge of anti-American feeling"をこのように翻訳してみると、市民大会の盛り上がりが、突如現れたかのように読める。しかし、辺野古の基地移設反対の座り込み運動が数ヶ月以上続いているという事実ひとつをとっても、沖縄の反基地感情は唐突に盛り上がりを見せたというような種類のものではないことは、記者が後段で指摘する通りである。
      *10 この一文がどうもよく判らない。「事故現場は、そこを仕切っていた米国人にすっかり委ねられていたように見えた、こうした状況からしても、『日本復帰』は欺瞞であったとの批判が日本の自衛隊に突きつけられた。」とか?なぜ自衛隊が出てくるのか文脈も不明。どなたかお知恵を拝借したいです。早速のご意見を頂戴しました。「事故現場を仕切るアメリカ人たちにおとなしく従っているとみえる日本自衛隊の兵士たちには「日本に帰れっ」と怒号が飛んだ。」by松原宏之氏。ナルホド。つい「日本復帰」なんて思い込んでしまった。しかし、現場に自衛隊はいたのだろうか?たとえば県警や機動隊を勘違いしたのだとして、事件現場に駆けつけて取り囲んだ沖縄の人たちは、県警(つまり同じ県人同士である可能性が高い)に向かって「日本に帰れ」などと罵るのだろうか?更なる疑問。
      *11 「若者の態度が悪い」という指摘もあるとはいえ、この場合は"senior"は年配のというより、階級が上の、ということのようです。「通りすがりの方」からご指摘頂戴しました。有り難うございます。"a group of marines blocking access to a group of senior Okinawa police detectives" 「県警の一団への接近を遮断した」と読めますが、内容からして、「現場への立ち入りを」、ということでしょう。
      *12 ケリー・ディーツさんはさまざまな報道でコメントを求められた様子。たとえば、ここここを参照。
      *13 「誰も負傷したと報道されている乗組員を心配する様子がない」とは「フェンスの内側」からの見方のようだ。Stars and Stripes紙に寄せられた読者の意見を参照。"The U.S. Marines involved are human beings, and it would be best for bilateral relations if the local opposition acted with humane concern regardless of their political bent."(「事件に関与した米海兵隊員も人間だ。地元の反対運動は、政治的な傾向と関係なく人間らしい関心を持って行動することが、お互いの関係にとってベストだろう」)。なるほど、気持ちは分かります。地域に貢献しようと皆さんこんなにこんなに頑張っていますからね。しかし、残念なことに米兵と沖縄人は、沖縄で地位的に平等ではないらしいことは、この事件を含めて、これまでに繰り返し明かになっている事実だ。「基地の問題は沖縄と日本政府の問題だろう」という声はたびたび「フェンスの内側」から聞こえてくる。その論法を逆手に取れば、米軍関係者は、自分たちが沖縄で歓迎されていないという苦情を、沖縄に対してではなく、自分たちの軍と政府に対して向けるべきだろう。
      *14 この人。在沖四軍調整官という役職です。市民大会での決議文の受け取りを拒否しています。「トーマス・ライク在沖米総領事から『事の重大性から受け取るべきだ』との助言があったため受け取る方向のようです。沖縄タイムス記事を参照
      *15 原文"agreement"だが、正確には、日米地位協定は1960年締結で、まだ50年経っていない。ここでは地位協定の運用をめぐって交わされた日米地位協定各条に関する日米合同委員会合意のなかの「第十七条に関連する日米合同委員会合意」(1952年合意)を指していると思われる。
      *16 じつは、ガイドラインの手続に則っていなかった、という話もある。「現場封鎖は合意違反」『沖縄タイムス』04年9月11日。日米地位協定とガイドラインについて、詳細な考察は米軍ヘリ墜落事故と日米地位協定とこれ以後の駝鳥氏のサイトを参照されたい。
      *17 宜野湾市基地政策部 基地渉外課(基地の概要)よりFAC6051普天間飛行場 を参照されたい。この広大な飛行場建設の来歴は、沖縄戦であり、軍事占領によって暴力的に奪われた跡地に、占領者である米軍が基地を建設したのである。
      *18 この人。普天間爆音訴訟で、ついに出てきませんでした。『asahi.com』記事
      *19 住民投票の結果をまとめているページ『沖縄タイムス』紙を参照。
      *20 自然の権利サイト内の沖縄ジュゴンFILEBOXを参照。
      *21 沖縄ジュゴン環境アセスメント監視団を参照。
      *22 ボーリング調査への抵抗運動の様子はシンさんの辺野古日記の記録とジュゴンの家・日誌サイト内の9月9日木曜日の写真記録を参照されたい。
      *23 この人。NYT記者は、どうして、現在、沖縄の問題に直接関与している日本と沖縄の政治家の声を記事にしなかったのだろうかσ(‥)?

    大学院講義「文化研究」(07前)

    シラバス作成中。演習形式で理論書の読解と参加者による討議を行う。
    07年度前期はガヤトリ・チャクラヴァルティ・スピヴァク著『ポスト
    コロニアル理性批判』を取り上げる予定。

    南北アメリカ地域研究(07前/専門)

    現在シラバス作成中。政策科学・国際関係論専攻のコース関連科目。

    現代の国際関係(07前/共通)

    現在シラバス作成中です。06後期に引き続き、社会運動から見る国際関係をテーマに講義する予定。

    阿部ゼミ2007年度シラバス

    <さっと見版>

    07年度のテーマ

    • アメリカ合州国におけるマイノリティと抵抗運動
    • 抵抗の社会運動研究
    • アメリカン・スタディーズ
    • カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル・スタディーズ

    ゼミ生に求めるもの、あるいはゼミに入ったあとで伸ばしてもらいたい能力

    • Web作成とネットワーク形成力・コミュニケーションのスキル
    • 大量読書
    • 批評的思考と実践

    07年春の、とりあえず最初のテキスト

    • E・W・サイード著、村山敏勝・三宅敦子訳『人文学と批評の使命:デモクラシーのために』岩波書店2006年。
    • ポール・ギルロイ著、上野・毛利・鈴木訳『ブラック・アトランティック:近代性と二重意識』月曜社2006年。
    • ロビン・D・G・ケリー著、村田勝幸・阿部小涼訳『ゲットーを捏造する:アメリカにおける都市危機の表象』彩流社近刊。
    • Robin D. G. Kelley, Freedom Dreams: the Black Radical Imagination (Boston: Beacon Press, 2002). George Lipsitz, The Possessive Investment in Whiteness: How White People Profit from Identity Politics (Philadelphia: Temple Univ. Press, 1998).
    • Etienne Balibar, James Swenson (trans.), We, the People of Europe?: Reflections on Transnational Citizenship (Princeton: Princeton Univ. Press, 2004).
    • 樋口映美・中條献編『歴史のなかの「アメリカ」:国民化をめぐる語りと創造』彩流社2006年。
    • 大塚秀之『現代アメリカ社会論:階級・人種・エスニシティーからの分析』大月書店2001年。
    <詳しく見るには以下へ>

    国際関係論演習I・II(前・後期)シラバス<詳細版>

    担当:阿部小涼 kosuzu(あっとまーく)ll.u-ryukyu.ac.jp
    研究室:法文棟219室
    オフィスアワー:火曜日午後>
    履修希望者はゼミ選考の説明も参照すること。

    演習内容

    地域研究(南北アメリカその他)とネットワーク実践が交錯する地平を学ぶ学生のためのゼミナールである。参加者は以下のテーマやキーワードに深く関心を持ち、実践することが求められる。
    (1)ネットワークを利用した人文社会学情報発信の実践。
    (2)カルチュラル・スタディズやポストコロニアル・スタディズなどの批評理論アプローチ。
    (3)人種・ネイション・アイデンティティ研究。
    (4)アメリカ研究。
    2007年度は特にアメリカ合州国におけるマイノリティと抵抗運動にフォーカスしながら進める。

    評価基準

    (1)出席。
    (2)報告・ディスカッションへの参加状況とその内容。
    (3)課題の提出状況とその内容
    3年次:CMSツール等を利用した情報の発信とネットワーク作り実践
    4年次:卒業論文のテーマ発表/中間報告/最終段階での報告
    (4)インターネットによる人文社会学情報の発信、ネットワークづくりへの参加と貢献。

    教科書

    参加者の顔触れを見ながら随時指定・配布するが、当面以下のものを予定している。春休み中に各自で準備しておくこと。
    E・W・サイード著、村山敏勝・三宅敦子訳『人文学と批評の使命:デモクラシーのために』岩波書店2006年。
    ポール・ギルロイ著、上野・毛利・鈴木訳『ブラック・アトランティック:近代性と二重意識』月曜社2006年。
    ロビン・D・G・ケリー著、村田勝幸・阿部小涼訳『ゲットーを捏造する:アメリカにおける都市危機の表象』彩流社近刊。
    Robin D. G. Kelley, Freedom Dreams: the Black Radical Imagination (Boston: Beacon Press, 2002).
    George Lipsitz, The Possessive Investment in Whiteness: How White People Profit from Identity Politics (Philadelphia: Temple Univ. Press, 1998).
    Etienne Balibar, James Swenson (trans.), We, the People of Europe?: Reflections on Transnational Citizenship (Princeton: Princeton Univ. Press, 2004).
    樋口映美・中條献編『歴史のなかの「アメリカ」:国民化をめぐる語りと創造』彩流社2006年。
    大塚秀之『現代アメリカ社会論:階級・人種・エスニシティーからの分析』大月書店2001年。

    参考文献

    随時紹介する。

    履修条件

    「国際関係論II」を履修する4年次学生は必ず「卒業研究」(政国141)を同時に登録すること。
    履修希望者多数の場合は選抜を行う。詳細はUndergradSeminar/2007ゼミ説明と選考を参照して下さい。
    サブゼミとして履修/参加することを希望する学生は、kosuzu(あっとまーく)ll.u-ryukyu.ac.jpまで必ず事前に相談して下さい。

    授業予定

    前期

    共通のテクストを講読し討論しつつ、3年次は多読と精読により知識を広げる。
    www上での研究報告。
    4年次は各自の卒業研究テーマを決定し、先行研究の調査を行う。

    ゼミ合宿

    3年次は共同研究/個人研究テーマの決定
    4年次は、卒業論文の中間報告

    後期

    3年次はテーマに即して共同研究を行い、その成果をwwwその他のかたちで公開する。
    4年次は各自の研究テーマについて発表・練り上げを行い、卒業論文にまとめる。

    その他

    時間割のみにとらわれない企画を予定しています(夏合宿、旅行、読書ゼミなど)。
    テクストは英語の文献が中心です。サブテクストも多くなることが予想されるので、多読・精読が基本となります。
    ネットワークを利用した情報交換のコミュニティ作りを実践します。3年次は特にwikiやblogツールなどを利用したWebコンテンツの作成を行ってもらうので、これらについての基本的な知識と経験を持っていること、あるいはこれから技術を習得しようとする意欲が期待されています。
    文献・資料収集と整理、パソコンを利用したレジュメや論文の執筆が出来ることが前提です。


    その他

    細かい仕事、非アカデミックな仕事、仕事に見えない仕事、仕事ではないものなどは以下。

    「チャングイ・ウチナーを目指す沖縄のハードハンズ」大城太郎インタビュー 聞き手・阿部小涼 De Musik Inter.編『音の力・沖縄アジア臨海編』インパクト出版会2006年。
    「普天間閉鎖と基地建設反対が選挙のイシュー」『けーし風』第51号(2006年9月)。
    「特集によせて」『アメリカ史研究』第29号(2006年8月)。
    「このFeelin' 大事なのはTiming 気持ちひとつにしてEverybody」 <インタビュー>ピースミュージック辺野古 仲本政顕・平野雅章・聞き手-阿部小涼)『けーし風』第50号(2006年3月)。
    書評:Eiichiro Azuma, Between Two Empires: Race, History, and Transnationalism in Japanese America (New York: Oxford University Press, 2005), 『アメリカ研究』第40号(2006年3月)。
    「合意してないプロジェクト」『けーし風』第49号(2005年12月)。
    「<対談>現場を創り、つながっていく可能性」(阿部小涼・新城郁夫・司会-屋嘉比収)『けーし風』第47号(2005年6月)。
    「大学図書館のデジタル情報をハーレムで考える」『けーし風』第46号(2005年3月)。
    「不都合な証拠 /永続する時間」『けーし風』第45号(2004年12月)。
    「抵抗の想像力」『けーし風』第44号(2004年9月)。
    「記憶する/記録する」『けーし風』第43号(2004年6月)。
    「カラーラインを越えないアメリカ」『けーし風』第42号(2004年3月)。
    「沖縄から占領を想像する」『けーし風』第41号(2003年12月)。
    「ドミニカン移民研究の模索」『けーし風』第40号(2003年9月)。
    「戦争と市民権」『けーし風』第39号(2003年6月)。
    「カフェ・コン・レチェNY通信」(2003年10回連載)『沖縄タイムス』紙。
    「落ち穂」(1999年連載)『琉球新報』紙。
    「米軍ヘリ墜落事件とNYT報道」翻訳。
    弘文堂『世界民族事典』項目「プエルトリコ」「プエルトリカン」。Explanations for the idems of "Puerto Rico" and "Puerto Rican," in Ayabe Tsuneo eds. The World Ethnic Dictionary. Tokyo: Kobundo, 2000.

    Translations→翻訳

      Robin D. G. Kelley, Yo' Mama's Disfunktional: Fighting the Culture Wars in Urban America (Boston: Beacon Press, 1998). →ロビン・D・G・ケリー著、村田勝幸・阿部小涼訳『ゲットーを捏造する:アメリカにおける都市危機の表象』彩流社近刊。
      Paul Gilroy, "Cultural Studies And Ethnic Absolutism," L. Grossberg, C. Nelson, P. Treichler (eds.), Cultural Studies (London : Routledge, 1992).→ポール・ギルロイ「カルチュラル・スタディーズと民族絶対主義」『思想』no.854 1995年8月。
      Henry Louis Gates, Jr., "Critical Fanonism," Critical Inquiry, 17-3 (Spring 1991).→ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア「批判的ファノニズム」『現代思想』vol.25-11 1997年10月。

    Academic Conference (in English)

    Moderator and Panel "What's Going on in Okinawa," '“We Disagree”: Global Anti-Base Struggles and the Role of Scholars,' Conference of Global Radicalism (Lansing, Michigan State University, January 27, 2007).
    Commentator, Film screening and discussion of "Marines Go Home", Peace and Justice Studies Association Conference (New York, Manhattan College, U.S.A., October 5-8, 2006).
    "Identities and Racism of the Puerto Rican Migrants in New York City: An Introductory Essay," "Interrogating Race and National Consciousness in the Diaspora," (Chapelhill, Univ. of North Carolina, U.S.A., September 17, 2003).

    発表など

    <最近の発表>
    セッション3「継続する暴力・搾取への抗いに向けて:社会構成体の<周辺>をめぐる呼びかけ」コメンテイター、『再生産は長く続く?:アルチュセール・マラソン・セッション』2006年7月22日立命館大学先端総合学術研究科。
    「他者の表象への介入──三つの写真展をめぐって」アメリカ学会第39回年次大会部会D「展示と権力」(2005年6月5日)。“To Commit to the Representation of The Others: A Comparative Study of Three Photo Exhibitions" Japanese Association for American Studies 39th Annual Meeting, Session D, Exhibition and Power (June 5, 2005).

    <少し前の発表など>
    「ポピュラーカルチャーとしてのサルサ」上智大学イベロアメリカ研究所第26回ラテンアメリカ事情講座「ラテンアメリカの現代ポピュラー・カルチャー」(2002年6月13日)。"Popyura Karucha toshiteno Sarusa," [Salsa as Popular Culture], Sophia University, (Tokyo, Japan, June 2002).
    「帝国の表象/植民地のディスコース:20世紀初頭プエルトリコにおける米国支配について」沖縄関係学研究会(2002年2月2日)。"Teikoku no Hyoushou/ Shokuminchi no Disukosu: Nijusseiki Shotou Puerutoriko niokeru Beikoku Shihai nitsuite," [Representations of the Empire/ Discourse of Colonialism: U.S. Controll over Puerto Rico in the Beginning of the 20th Century], Okinawa Kankeigaku Kenkyukai, (Tokyo, Japan, February 2002).
    「投票とアイデンティティ」東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻主催、第9回公開シンポジウム「カリブの遠近法」(2001年10月27日)。"Touhyou to Aidentiti," [Plebiscite and Identities] Annual Symposium of Graduate School of Arts and Sciences, University of Tokyo, "Perspectives of Caribbean", (Tokyo, Japan, October 2001).
    「ヘスス・コロン:ニューヨークに生きたプエルトリカンと『人種』」間大西洋アフリカ系諸社会における20世紀<個体形成>の比較研究、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文科研究所(2001年10月20日-21日)。"Hesusu Koron: Nyuyoku ni Ikita Pueruto Rikan to 'Jinshu'." [Jes?s Colon: a Puerto Rican in New York and a meaning of "Race"] Research Institution for Languages and Cultures of Asia and Africa, (Tokyo, Japan, October 2001).
    「島嶼地域におけるステイタスのアポリア?プエルトリコの独立問題を参照しながら?」日本国際政治学会年次大会部会「国際政治の中の島嶼地域?アイデンティティの国際比較?」(1997年10月18日)。"Tousho Chiiki niokeru Suteitasu no Aporia: Pueruto Riko no Dokuritsu Mondai wo Sanshou shinagara," [Aporia of Status Problems in the Insular Areas: with Reference to the Problems of Independence of Puerto Rico] The Annual Meetings of the Japan Association of International Relations (Okinawa, Japan, October 1997).
    「1930年代米国の砂糖割当政策:プエルトリコの事例を中心として」西洋史学会第46回年次大会(1996年5月19日)。"1930 nendai Beikoku no Satou Wariate Seisaku: Pueruto Riko no Jirei wo Chusin toshite," [The Sugar Quotation Policy of the United States in 1930s and Puerto Rico], The 46th Annual Meeting of Seiyoushi Gakkai, (Tokyo, Japan, May 1996).
    「非独立という選択肢?プエルトリコ的自立の模索?」歴史学研究会総合部会第8回例会「島嶼の歴史」(1995年4月15日)。"Hi-Dokuritsu toiu Sentakushi: Pueruto Riko teki Jiritsu no Mosaku," [Non-independent Option: Struggle for Sovereignty in Puerto Rico], Special Symposium, "Islands' Hisotry," Rekishigaku Kenkyukai (Tokyo, Japan, April 1995).
    「ヌエボ・トラト(El Nuevo Trato):プエルトリコから見たニューディール」アメリカ学会第28回年次大会(1994年4月2日)。"Nuebo Torato: Puerturo Riko karamita Nyu Diru," [El Nuevo Trato: New Deal in Puerto Rico] The 28th Annual Meeting of the Japanese Association for American Studies (Tokyo, Japan, April 1994).
    「プエルトリコにおける大衆政党の成立〜PPDとムニョス・マリン」第153回アメリカ史研究会例会(1994年1月22日)。"Pueruto Riko niokeru Taishu Seitou no Seiritsu: PPD to Munyosu Marin," [Formation of the Popular Party in Puerto Rico] Amerikashi Kenkyukai, (Tokyo, Japan, January 1994).
    「プエルトリコにおけるアイデンティティの形成と独立」西洋近現代史研究会例会(No.167)(1991年4月27日)。"Pueruto Riko niokeru Aidentiti no Keisei to Dokuritsu," [Formation of Identity and Independence Movement in Puerto Rico] Seiyou Kingendaishi Kenkyukai, (Tokyo, Japan, April 1991).

    論文

    <最近の論文>
    「占拠する身体から見える可能性の領域:ビエケス島における射爆場撤去をめぐる市民的不服従の記録から」『現代思想』特集・日米軍事同盟(2006年9月)。
    「『合意』を拒否する沖縄の政治学」『インパクション』特集・改憲と在日米軍再編第150号(2006年1月)。
    「国民を証明しようとする人々:米国に生きるプエルトリカンの身元証明と人種」樋口映美・中條献編『歴史のなかの「アメリカ」:国民化をめぐる語りと創造』彩流社2006年。
    「海で暮らす抵抗」『現代思想』特集・女はどこにいるのか(2005年9月)。
    「肌の色の地誌学:プエルトリカン移民研究における人種の議論」『琉球大学法文学部 政策科学・国際関係論集』7号2005年3月。"Geography of the Complexion: Race Issues in Puerto Rican Immigration Studies," Review of Policy Science and International Relations (Faculty of Law and Letters, University of the Ryukyus), Vol.7 (2005).

    <少し前までの論文>
    「国民を証明しようとする人々:米国に生きるプエルトリカンの身元証明と人種」『アメリカにおける国民意識の歴史的考察』(平成14-16年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))研究成果報告書)(2005年3月)。
    "Identities and Racism of the Puerto Rican Migrants in New York City: An Introductory Essay," Interrogating Race and National Consciousness in the Diaspora, (Working Paper of the symposium of the same title, held at Chapelhill, Univ. of North Carolina, U.S.A., September 17, 2003).
    「併合されない領土:プエルトリコ領有にみる植民地の経験」『琉球大学法文学部 政策科学・国際関係論集』6号2003年3月。"Colonial Experience of Puerto Rico: Borderline of the Citizenship of the 'Unincorporated Territory'," Review of Policy Science and International Relations (Faculty of Law and Letters, University of the Ryukyus), Vol.6 (2003).
    「トロピカライゼーションズ:プエルトリコの植民地のディスコースと「南」イメージのダイナミズム」遠藤泰生・油井大三郎編『浸透するアメリカ・拒まれるアメリカ』東京大学出版会2003年。"Tropicalizations of Puerto Rico in the Colonial Discourse and Dynamics of the creation of self-image". Endo Yasuo and Yui Daizaburo eds. Americanizations. Tokyo: University of Tokyo Press, forthcoming.
    「ポストコロニアル・プエルトリコ:1998年住民投票をめぐる考察」遠藤泰生・木村秀雄編『クレオールのかたち』東京大学出版会2002年。"Post-colonial Puerto Rico: Reflection on the Plebiscite of 1998". Endo Yasuo and Kimura Hideo eds. Contour of Creole Tokyo: University of Tokyo Press, 2002.
    「『南』へのまなざし:20世紀初頭プエルトリコと米国の邂逅」『琉球大学法文学部 政策科学・国際関係論集』4号2001年3月。'"An Encounter with the Tropics: Puerto Rico Imagined in the Colonial Discourse of the United States, 1898-1930". Review of Policy Science and International Relations (Faculty of Law and Letters, University of the Ryukyus), Vol.4 (2001).
    「1930年代プエルトリコにおける米国砂糖割当法のインパクト」『琉球大学法文学部 政策科学・国際関係論集』3号2000年。"Puerto Rico in the 1930s under the Sugar Act of the United States". Review of Policy Science and International Relations (Faculty of Law and Letters, University of the Ryukyus), Vol.3 (2000).
    「どれでもないという選択:1998年プエルトリコにおける政治ステイタスをめぐる住民投票から」『東京大学アメリカン・スタディーズ』4号1999年。"'Ninguna de las anteriores': The 1998 Plebiscite and the Probrems of Puerto Rican Identity". University of Tokyo Journal of American Studies. Vol. 4(1999).
    「『非独立』への道─1940年プエルトリコにおける大衆民主党の成立─」『一橋論叢』第118号第2号1997年8月。"Non-independent Alternative: Partido Popular Democr?tico and the 1940 Election in Puerto Rico". The Hitotsubashi Review. 118-2 (August, 1997).
    「プエルトリコにおけるステイタス問題の発生─米国支配の成立過程についての試論─」『一橋研究』第22巻第1号1997年4月。"Emerging of the Status Problems of Puerto Rico after the Occupation of the U.S." Hitotsubashi Journal of Social Sciences. 22-1 (April, 1997).
    「ヌエボ・トラト(El Nuevo Trato)−プエルトリコにおけるニューディール−」『アメリカ研究』30号(1996年)。"'El Nuevo Trato': The New Deal in Puerto Rico". The American Review (The Journal of Japanese Association for American Studies). Vol. 30 (1996).

    who is abekosuzu?

    ABE, Kosuzu
    Associate Professor @ Univ. of the Ryukyus
    International Relations
    Faculty of Law & Letters,
    University of the Ryukyus,
    Okinawa, Japan
    kosuzu(at)ll.u-ryukyu.ac.jp
    Policy Science and International Relations

    blog化

    仕事関係のwikiをblogに徐々に移行することに。