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友の足音、回り続けるレコード

夜のなかを歩みとおすときに助けになるのは橋でも翼でもなくて、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。ぼくは、ことばでもって闘争しようとつとめてみて、そのときにわかったのだが、夜に抗して闘争する者は、夜のもっとも深い暗黒をも動かし、夜をも発光させなくてはならぬ。(ヴァルター・ベンヤミン)

20世紀初頭のこのベンヤミンの言葉を、雑誌『前夜』創刊に寄せた徐京植が引き、鵜飼哲が受け取り、沖縄につなげた。(*1)(*2)あれからずっと、今も、不快に明るい夜を生きる私たちは、真の、真夜中の時間を待ちわびて、レコードの溝を針が削るグルーブに、耳を傾ける。(*3)

この政治は、それが演奏され、踊られ、演じられ、また歌われる音域である低周波音域帯に存在する。なぜなら、真理への自らの語り得ない主張を伝えるのに、言葉は決して充分ではないはずだからである。たとえそれが、メリスマによって引き延ばされ、いまもなおはっきりと奴隷の崇高さの力をしるす叫びによって代補され、変形される言葉であっても。したがって、断固としてユートピア的な変容の政治学をあらわにする、このように故意にダメージを与えられたしるしは、部分的には近代性を乗り越えて、創造的な反近代の過去と来るべきポスト近代の両方を構成している。これは対抗言説ではなく、ひとつの対抗文化であって、自らの半ば隠された公的領域における、自らの批評的、知的、道徳的系譜を、抵抗を通じて再構築する運動なのである。したがって、変容の政治学は近代性の概念のなかの隠れた内的な亀裂を明らかにしているのである。政治の領域が拡張されるのは、この表現の伝統が、政治的なものを容易に分離可能な領域であると認めることを拒むからにほかならない。(ポール・ギルロイ)

 ギルロイは、大西洋を横断する船のイメージをレコード盤に重ねて、ブラック・ミュージックを「変容の政治学」の表現形式として豊かに批評した。マキシ・シングル、カット&ミックス、技術革新が時間も空間も超えたコール&レスポンスを可能にする様を活写するギルロイが今、あの本を書いていたなら、YouTubeが最後の項に加えられていたかもしれない。

 「Rollin' Rollin' 回り続ける レコードに運ばれて・・・」(*4)

通りすがりのその町の歌をうたった七尾旅人(*5)がECDの「いっそ東京を、戦場に」を翻案し、それがダメージを伴いながら今日に呼び返されている。(*6)(*7)


友の足音が、聞こえる。