阿部小涼「抵抗の想像力」

※『けーし風』第44号(2004年9月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。



 反戦・反ブッシュ派(とひと口にまとめてしまうのは乱暴なのだが)。現在の米国で抵抗運動を担うこれらの人々のなかで、1960年代の社会運動へのリスペクトが絶えない。かれらの戦争反対を、抵抗のフリースピーチ運動を、非暴力闘争の理念を現在につなごうとしているのだ。当時活躍した言論人の声に耳を傾け、映像記録を眺めてみると、存外その方法は多様でユニークであった。そして戦略の甘さや計算外の失態、分裂や失望や維持の困難がその後に続く。

 気になるのは、複雑で多様な内実を抱え込む反戦派が、今回の大統領選で民主党に、さらにはジョン・ケリー支持に収斂していく点だ。不協和音は既に、民主党大会において明かだった。イラクからの即時撤退を求める声は、「テロに屈せず」と声を荒げ軍隊の統率力もそつなくアピールするケリーへの万雷の拍手とともにかき消された。形の合わないパズルのピースを無理矢理にはめ込んだような違和感の連帯。例えば民主党が政権を奪還したとして、その後、予め包含した認識のズレに、反戦派にはどのような戦略があるのだろうか。いったん動員した「無党派層」の反戦気運を裏切れば、無力感による沈黙の蔓延といった、より深刻な結果を、抵抗運動の側にもたらすだろう。

 それはどこか、普天間飛行場の撤去についての沖縄の議会や論壇における不協和音を連想させる。撤去については大同団結出来ても、その方法、代替地、移設の期限・使用年限などの点で論者の立場は細分化しているのが実情だ。そんなことを考えていた矢先に、沖国大であの事件が起こった。反基地運動の戦略を考えるべき事態は緊迫している。

 60年代の抵抗運動を回顧する視線には、熱い政治の季節への憧憬もある。政治が身近に感じられ発火点があったあの頃はよかったと、失われて今はもうないものへの郷愁を呟く感覚は、現在の無力に口実を与えているように見える。

 8月29日に共和党大会を目前にしたニューヨークで、「平和と正義のための連帯 (UFPJ: United for Peace and Justice) 」が企画したデモ行進が行われた。40万人とも言われる規模のこの統一行動は、厳戒態勢下で「大きな事故もなく平穏のうちに終了」した。ニューヨーク市長は「平和的活動家は歓迎」企画で観光割引など設けて、反戦派の矛先を消費主義で陥落しようと躍起だった。その楽しげな顔の裏で、UFPJが企画したセントラルパーク大集会は「芝生が痛む」「安全が確保できない」ことを理由に使用を許可せず、この市側の思惑を裁判所も追認した。これは憲法修正第1項「集会の自由」の侵害にあたるとして、UFPJは最後まで調整に取り組み、セントラルパークを断念した後も参加者に個人として行動する可能性を示唆した。また参加者が逮捕された場合の法的支援も整えて臨んだ。それでもなお「おおむね無事でよかった」と落着する見解は異論を招く。安全確保の成功を強調する管理側に訓化され、所詮、吠えるばかりで噛みつかないと抵抗運動内部からの批判に晒されたのである。

 米軍ヘリが沖国大に墜落した直後に駆けつけた学生運動の抗議に対しても同様の非難を見かけた。反対は儀礼的で結局本気ではないのだという、一見クールで斜に構えたこうした批評気分には、全く同意できない。抵抗が身体的な苦痛や拘束を辞さないことと、流血の衝撃を欲望する浅ましさには、重なり合う地平すら見つけられない。

 UFPJの大きな統一行動を支えたのは、幾多の独立系行動であった。想像力に富むその抵抗の方法は示唆に満ちている。豪奢ホテルの壁面に上って横断幕を掲げる/全裸になる/恐ろしく沢山の自転車が集まって交通を麻痺させる等々。逮捕者も多く出しながら抵抗の意志を社会に伝えたかれらの行為こそが、連帯デモへの共感の土壌を形成した。映画製作によってメジャーな成功を収めたマイケル・ムーアだが、彼のみが傑出しているのではないことが、草の根の想像力を見れば理解できる。笑い、大袈裟、迷惑行為、常識外れ、これらは単純だが、転覆する力を持つ。

 細分化するイシューを超えて連帯すればその先には解体がある。安全を確保すれば運動の熱が冷めていく。抵抗運動は規模によるエンパワメントを必要とするが、それによって殺がれていくものもある。60年代の運動は、成果の後の挫折こそが参照されなければならない。

 この点で、抵抗の想像力を充満させてきたのが沖縄ではないか。コザ暴動や琉大事件や東京タワーの占拠を参照し意味を与えながら現在につながっているのが、沖縄ではないか。人間の鎖や辺野古の座り込みは、運動の方法を世界の抵抗者に拓く知見となろう。こうした試みを外につなぎ、共感の共同体につなぐのは、ことばを担っている者の、これもまた創造的な抵抗の一端なのだろうと思う。

 抵抗するわたしたちは、飼い慣らし、矮小化するポリティクスと際どくせめぎ合っていかなければならない。拝外主義や、安直なナショナリズムに回収される道を拒否しなければならない。発火点の無いぬるい日常のなかで、反抗を涵養していかなければならい。

<後記>日常のなかでの抵抗を示すこと。基地のことを基地の中に囲い込まずに、暴露し見せつけることも、そうした戦略の一環となろう。10月にはニューヨークPS1で石川真生氏ほかの写真展が開催される予定。軍隊に入った子供たちが、駐屯先の見知らぬ国でどんな生活をし、その土地の人々にどのように眼差されているのか。戦場の経験ではない、軍隊の日常を直視する機会を米国に提供する展示となることが期待される。


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Last-modified: Thu, 05 Jan 2006 15:37:25 JST (6113d)