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卒業論文へのコメントを再掲載してゼミの紹介に代えます。

阿部ゼミナール2002年度卒業論文について

2003年2月14日
文責:阿部小涼

 そしてぼくはさらに言うだろう、
「僕の口は、口をもたぬ諸々の不幸の口となるだろう、ぼくの声は、絶望の牢獄で打ち沈む諸々の声の自由となるだろう」と。
 そしてやって来るとき、ぼくはぼく自身に言うだろう、
「そしてとりわけぼくの身体よ、そしてぼくの魂よ、見物人の不毛な態度で腕を組むことのないよう気をつけよ、なぜなら人生は見せ物ではなく、苦悶の海は前舞台ではなく、叫ぶ人間は踊る熊ではないのだから……」と。
エメ・セゼール「帰郷ノート」

 サバルタンは語ることが出来ない。グローバル・ランドリー・リストに恭しく「女性」という項目を記載してみたところで、こんなものにはなんの値打ちもない。表象=代表(representation)の作用はいまだ衰えてはいない。それが証拠に、彼女についての異種混淆的な情報検索がなされてきたにもかかわらず、「第三世界の女性」という固有名を与えられた一枚岩的な主体が  ナルシシスティックな他者にたいする欲望を強化しつつ  依然として大手を振って罷りとおっている。ポストコロニアルの女性知識人には  知識人として  この証拠を記録するというひとつの限定された任務が課せられているのであって、それを彼女は自分のものではないと麗々しく言い募って否認するようなことはすべきではないのである。
G.C.スピヴァク「サバルタンは語ることができるか」

[総評]

 02年度阿部ゼミ生によって提出された卒業論文は、多岐にわたる題材のみならず「国際関係論」としては異質だと思われがちな文学や映画評論も含み、指導する側の能力も問われるような体験であった。桜井知子は、「『10月危機』:40年を経て可能になったこと」と題して、1962年の「キューバ危機」を題材とした。田中紳一郎は、「エゴイズムとエセンシャリズムがおりなす交差点:ラルフ・エリスンの『方法』」というタイトルで、米国50年代のアフリカ系作家ラルフ・エリスンを採り上げた。松浦孝子は「『都市のアボリジニ』のアボリジナリティ:その実体と可能性」で、オーストラリアのアボリジニを多文化主義政策とのからみ合いのなかで論じた。森山紹は「『沖縄映画』の解体」と題して、沖縄が表象される映画を採り上げ、そのなかに潜む視線のポリティクスについて論じた。
 冒頭で述べた「異質な」文化評論を行ったのは田中論文と森山論文である。文学作品や映画を歴史的な価値変化というコンテクストに位置づけなおして資料として検討している。国家間の外交関係ではなく、集合的なアイデンティティ表象の言語的関係の分析に集中する。カルチュラル・スタディーズの成果が「関係論」としてこの分野に寄与する可能性があるとすれば、それはこのような形式をとるのであろう。
 いっぽう、国家間の外交関係について採り上げた桜井論文、国内問題であるが先住民の権利問題を採り上げている松浦論文は、伝統的な外交史・国際社会学の枠組みに準拠しているが、その関心の持ち方において大きく異なる。桜井が問題としたのは3国間の外交関係や交渉のプロセスではなく、それを「再検討」するという歴史化のプロセスにおける片務的関係であった。松浦は、アボリジニを安易に多文化主義政策の中に位置づけるのではなく、むしろ批判的に見直す方法を、アボリジニ自身のアイデンティティの分裂に見出しているのである。
 問題関心に則してみれば、松浦論文と田中論文は「自己認識」を問題としている点で共通している。集合的アイデンティティが、抵抗の語りとして生み出され、バーゲニングパワーを持ち得るとしても、そこには予想のつかない歪みや不協和音が含まれている。それを、平らなつるりとした平面に馴らすことなく、不協和音として採り上げようという試みである。
 これに対し、桜井論文、森山論文は、権力的な「視線」によって描かれる「他者像」の解体と再想像のポリティクスに焦点が当てられている。その歴史やその像は「誰によって書かれたのか」どのような言説構造のなかで生産されたものなのかを問うのである。
 総じて4つの論文が共有するのは、多様な「文化」なるものを平等に評価したと見えて、評価する側の透明性が問題にされないという多文化主義的楽観へのアンチテーゼを提示しようとする態度であると言えよう。
 民族性や人種性(メインストリームによって色づけられた「他者」の刻印)を根拠として主張することと、エセンシャリズムという批判との相克を自認した上で、それをどのような議論によって克服するのか、どのような題材によれば、雄弁に語ることが可能なのか、そのような大きな問題に各人は立ち向かったのである。地域研究と称して、異文化や地域を「見る」「書く」ことが権力的な行為であることを理解するそのような立場は、国際関係や外交や地域研究を実践する上で避けて通ることの出来ない理論的立場であり、この点において今年度の卒業研究は、相応の水準に達したと判断してよい。
 理論的な思考をめぐらせることに焦点が置かれすぎたせいか、具体的論証の弱さ、論理的な議論を積み上げて結論に至るという構成の弱さが目立った。日本語表現の未熟さも、目に余るものがあった。一気呵成に書き上げるのではなく、じっくりと練り上げに時間を割き、文章の美しさや個性的な表現、記述への配慮、形式の正確さなどを追求する姿勢が欲しかった。


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Last-modified: Thu, 05 Jan 2006 16:36:32 JST (5068d)