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阿部小涼「ドミニカン移民研究の模索」

※『けーし風』第40号(2003年9月)に掲載されたものを、許可を得て一部改訂しています。



 すでに旧聞に属することであるが、米国における国勢調査センサスが2000年の調査結果として報告したなかでも耳目を集めたのは、「ヒスパニックス」がアフリカ系を抜いて最大のマイノリティ集団になった、という事実であった。


 2000年センサスは、従来の選択肢に加えて、6番目の排他的カテゴリーとして「ヒスパニックス」を設けた。これまでは追加的な質問項目であったヒスパニックスが、ひとつの選択肢として成立した最初のセンサスでもあったわけだ。ある意味ではその結果としてのヒスパニックスの「増加」で、全国人口の12.5%を占めるに至り、アフリカ系の12.3%を抜いて最大のマイノリティ集団となった。


 ニューヨーク市で、この傾向はより顕著に表れている。2000年センサスの統計とニューヨーク市の調査に基づく報告によれば、ニューヨーク市の人口のうち「非ヒスパニック白人」が35%、それに次ぐヒスパニックスは27%を占めた。なかでもこの10年間でのヒスパニックスの増加率が21.1%となっていることは注目に値するだろう。ニューヨーク市におけるヒスパニックスのなかでも際だつふたつのエスニック集団が、プエルトリカンとドミニカンである。どちらも、カリブ海域からの移民で、スペイン語を話し、人種的には混血が多いと見なされるなどの共通項を多く持っている。しかし、両者の間には微妙な線引きがあるようで、生活文化基盤における接点が意外なほど少ない、というのが筆者の直感的な印象である。例えばマンハッタンのなかで、プエルトリカンとドミニカンの拠点となる地区にはズレがある。


 ドミニカン移民の増加は、米国における比較的新しい移民傾向である。ドミニカ共和国では1961年、長く続いたトルヒージョ独裁政権が崩壊し、その後の混乱に乗じて1965年には米軍が介入する事件も起こった。移民は、経済・社会不安の緩和政策として、米・ドミニカ両政府の取り決めによって開始された。さらに1980ー90年代初頭にかけての経済状況の悪化は、家族呼び寄せなどのプログラムも利用した移民数を急増させた。公的に確認されている年間入国者数は1961年の3,045人から徐々に数を増やし、1981年には18,220人、1986年には26,175人が米国へ入国したとの統計もある。実数を特定することは困難とされるが、2000年以降現在では、少なくともドミニカ共和国本国人口の10%に相当する80万人が米国に在住すると見積もられている。


 ドミニカン移民の拠点であるワシントンハイツは、マンハッタン島の北端に位置する行政区画で、南側にハーレム、西側はハドソン川、北側と東側をハーレム川に挟まれた155丁目以北のことを言う。2000年の統計で地域人口20万8千人のうち、白人の13.6%、アフリカ系の8.4%に対して、ヒスパニックスは74.1%と他を圧倒している。アフリカ系、白人人口がこの10年間で2割以上減少したのに対して、ヒスパニックス人口は16.3%の増加傾向を示した。このことは、この地区のヒスパニックスの多くが、今なお移民として流入するドミニカンであることと無関係ではない。


 ドミニカン移民に対するイメージは、このワシントンハイツの地区イメージとともに変化しながら今日に至っている。当初、ドミニカからの移民の多くはミドルクラス出身で、米国への移民としては新しいグループだが移民後も軟着陸を果たし、エスニックビジネスを定着させながら比較的成功している、といった研究も見られた。しかし80ー90年代にかけての移民の急増以後、低賃金労働や犯罪との関与が指摘されるようになる。これはワシントンハイツの社会環境の悪化と並行している。マイノリティの弾圧で悪名高い90年代のジュリアーニ市政期にはドラッグディーリング撲滅を目的として警察による抑圧的捜査と強制的な取り締まりが行われた。気鋭のアフリカ系映画監督ジョン・シングルトンによってリメイクされた映画『シャフト』(2000年)では、157丁目の地下鉄駅から160丁目周辺の様子が「ドラッグディーラーのアジト」がある町並として描かれており、当時のワシントンハイツ周辺とドミニカンに対する一般的なイメージと重ね合わせられて興味深い。じっさいNYPDのパトロールは頻繁に行われているし、警察と消防を呼ぶための通報ボタンが路上に設置されている。郵便局の窓口は防弾ガラスで覆われ、ボデガと呼ばれる小規模の食料雑貨店のなかには、回転する窓で現金と商品の受け渡しを行うようなところも多い。それは、住民にとっては非常な抑圧的環境であり、警察による弾圧に対する不信感や抵抗が暴動を生むなどの苦い経験を、この町は経てきた。2000年代に入ってからは「安全になった」との声も聞かれ、それらは不動産ディーラーの思惑を反映しながら人口に膾炙しつつあるようだ。今年公開されたアルフレド・デ・ビジャ監督『ワシントンハイツ』(2003年)は、脚本の傍ら自ら主演もつとめたマニー・ペレスや、脚本に関わったとされる小説家ジュノ・ディアスらドミニカンたちが、自己の経験に寄り添いながら、このコミュニティを大切に生きる人々、経済的成功と脱出を夢見る若者などの姿を、誇張を避けながら丁寧に描いた秀作である。こうした映画が製作・公開されるところを見ても、「かつての暗い時代」を思い起こすだけの余裕が可能になったと言えるのかもしれない。


 中心を通るブロードウェイ沿いはボデガや、「ブラーボ」、「エル・ヒガンテ」などの名前のスーパーマーケットが軒を連ね昼夜を問わず賑わっている。店頭に並ぶ商品も、プラタノ、ユカ、シラントロ(コリアンダーのこと)などの野菜類、ココナツやタマリンドのジュース、エスプレッソ用のコーヒーの粉、ビールならプレシデンテなど、ドミニカンの生活色に彩られている。金物屋などの生活に根ざした商店のほか、本国への格安航空券を扱う旅行代理店、安く国際電話をかけさせる電話ブースを備えた電話店などが多く見られるのも、こうした地区の特徴である。


 ワシントンハイツでは、故郷ドミニカの政治に関するキャンペーンも盛んである。これはドミニカ共和国側の法が二重国籍を認めるため、米国籍を得てもドミニカ市民権を放棄しなくてよいことによる。ニューヨークのドミニカン移民コミュニティは、ドミニカ本国の政治家にとって重要な票田と政治資金源を成しているのである。いっぽうでこのことは、ドミニカンの米国市民権申請率の低さとなって現れる。米国への「定着」が疑問視されるゆえんでもある。しかし1991年に選挙区の改訂が行われた結果、ドミニカン初の市議会議員も選出され、地区を通る幹線道路のひとつは独立指導者の名前ファン・パブロ・ドゥアルテ通りと命名されるなど、地域への定着を象徴する動きも進んでいる。


 そのような影響のひとつとして、ドミニカ協会(Alianza Dominicana)が計画中のドミニカン移民文化施設は、「アフロ・キスケジャ(Afro-Quisqueya)文化センター」という名称が付されるという。「キスケジャ」とは、先住民による呼称に由来し、クリストバル・コロンの到達によってエスパニョラ島と「命名」されることになった島、すなわちドミニカ、ハイチの島を指している。プエルトリコにもボリンケンという別名があるように、ドミニカンはキスケジャを店の看板などにも好んで使用している。ここにアフリカ系というアイデンティティを重ね合わせるところに、米国におけるドミニカン移民の、人種意識をめぐる独特の姿勢を見ることが出来よう。


 センサス統計では複数形で表現された「ヒスパニックス」の内部にある人種・出身地の多様性や相克は不問にされている。出身地やコミュニティ内部の人種による階層化を覆い隠すような「ヒスパニックス」という語法の政治的意図については、注意深く検討する必要があるだろう。本稿では、そのような思考の一端として、今後拡大することが期待されるドミニカ系移民研究について、その端緒となる事例をわずかに示したにすぎない。プエルトリカンの後に増加したドミニカンは、パターンの相似性などから見過ごされてきた点も多い。また両者の関係性や単一のグループでは語り尽くせない中間的存在、両者のあるいは内部の人種をめぐる対立によって刻印されるアイデンティティの相互作用などは、充分に分析されてきたとは言い難い。移民研究が単一の集団の成功物語を強化し、自集団のアイデンティティ覚醒やリドレスに資する「ための」研究であった20世紀的方向性を、少しずらしていくことが、ドミニカン移民研究の今後の課題として期待される。あるいは、各人種・民族集団が、移民先での経験・経過年数を経るなかで発展・定着していくプロセスを踏むと考える歴史観では充分に汲み尽くせなかった問題領域を明かにする可能性も内包している。国家との関係の持ち方、人種意識、成功の語りなど、これからの移民研究が取り組むべき多くの豊かなテーマを擁しているのである。


<ニューヨークのドミニカン移民研究のためのレファレンス>

  • Reference, New York City Department of City Planningニューヨーク市都市計画局統計資料
  • The CUNY Dominican Studies Institute, City University of New York at City College
  • Ramona Hernandez and Silvio Torres-Saillant, "Dominicans in New York: Men, Women, and Prospects," Gabriel Haslip-Viera and Sherrie L. Baver eds., Latinos in New York Communities in Transition (Notre Dame, Indiana: Univ. of Notre Dame, 1996).
  • Julissa Reynoso, "Dominican Immigrants and Social Capital in New York City: A Case Study," Encrucijada/Crossroad, 1-1 (2003).
  • Milagros Ricourt and Ruby Danta, Hispanas de Queens: Latino Panethnicity in a New York Neighborhood (Ithaca: Cornell Univ. Press, 2003).
  • Terry Williams, The Cocain Kids: The Inside Story of a Teenage Drug Ring (Cambridge, Massachusetts: Perseus Books, 1989).
  • Ed Morales, Living in Spanglish: The Search for Latino Identity in America (New York: St. Martin's Griffin, 2002).

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Last-modified: Sun, 23 Apr 2023 00:07:31 JST (359d)